恋は咎であろうとも
02:日常
「んんっ……」
寝付けないかと思ったけれど、案外眠ることができた。布団から這い出てカーテンを開ければ、キラキラの太陽が部屋に射し込んでくる。うんと伸びをして窓の外を見下ろせば、今日も薔薇は綺麗に咲き誇っていた。
父の行っていた執務は、不在の間は叔父が代わりに行ってくれていたという。しかし直系である私が領地に戻ってくるのであれば早めに執務を学んだ方がいいという勧めもあって、叔父から仕事を引き継ぐことになったのだ。とは言っても叔父がしていたのは領民への挨拶周りくらいで、実際のところ仕事のほとんどはオリバーが担当していた。なので私に業務内容を伝えるのも彼というわけだ。
……しかし、帰国早々に仕事のことを考えるのはいくら領主の一人娘であっても大変だろうということで、叔父からの正式な引き継ぎは一週間以上後のことになっている。長らく領地を離れていたということもあって、しばらくは街を歩いたりして今人々がどんな暮らしをしているのかを知った方がいいと勧められたのだ。
「……よし、っと」
モリスが用意してくれたネグリジェを脱ぎ、動きやすいドレスに着替える。オレンジ色の裾をひらりと揺らして、姿見で変なところがないかをチェック。うん、大丈夫。昔はモリスやオリバーが起こしに来てくれないと起きられなかったが、長い寮生活の甲斐あって朝には強くなれた。初夏ではあるが朝はまだ少し肌寒いので薄手のカーディガンを着てから、私はキッチンを訪れる。そこではヘンリーとスチュアートが朝食の準備をしているところだった。
「あれ、もう起きたのか」
「うん。寮ではずっとこの時間に起きてたから、起きられるようになったんだ。私、ちょっと庭園をお散歩してくる」
「いってらっしゃいませ、お嬢様。お戻りになられましたら朝食をご用意しますね」
「ありがとう、ヘンリー。それじゃあ行ってきます」
香ばしい匂いの元はなんだろうと思ったけれど、それを尋ねることはせず外へ出る。朝露に濡れる芝生に裾が付かないよう細心の注意を払いながら、私は庭園へと直進した。幼い頃駆け回っていた庭園は今も変わっておらず、様々な色の薔薇が咲き誇って私を迎えてくれる。薔薇以外にも沢山の花が咲く庭園をゆっくりと歩いていると、奥の方で人影が動くのが見えた。この時間にここにいるのが誰かなんて解ってる。
「シリウス」
「……ああ、お嬢様。おはようございます」
「おはよう。気持ちのいい朝ね」
「はい、そうですね。お嬢様はお散歩ですか?」
「そうなの。昨日は寄れなかったから、今日こそはと思って。にしても、シリウスの腕は流石ね。ここに来るまで沢山の薔薇を見たけれど、どれも綺麗だったわ」
「お褒め頂き光栄です、お嬢様。よろしければ、あちらに植えた薔薇をご覧になりますか? 品種改良で、珍しい色になっているんです」
手にしていた園芸用のハサミをしまいながら、手袋に包まれていないシリウスの指先が奥の方を示す。私がこくんと頷くと、シリウスは足元に広げていた肥料の袋を手早く片付け私を案内してくれた。
こちらです、と彼が案内してくれたのは黄色を基調とした薔薇だった。花びらの縁の部分が濃いピンクになった薔薇は、恐らく黄色い薔薇とピンクの薔薇を掛け合わせて作られたのだろう。
「いかがですか?」
「とっても綺麗! ねえシリウス、この薔薇一輪貰ってもいいかしら? 書斎に飾りたいの」
「ええ、構いませんよ。ですがお嬢様、薔薇には棘がございます。お嬢様のお美しい指を血に染めてはなりませんから、こちらは後程、私がお持ち致しますね」
「ありがとう、シリウス。じゃあ任せるわ」
「はい。……そういえば、ブランコの周りの花も種類が増えたので、よろしければご覧ください」
「解った、後で見てみるね。ありがとうシリウス、案内してくれて。時間があったら、また色々とお花の話を聞かせて頂戴ね」
シリウスは頷くと、胸に手を当てて深々と頭を下げた。肥料を撒く作業に戻るという彼と別れ、散歩を切り上げた私は来た道を引き返す。あの様子だとヘンリーたちはすぐに朝食を出せる準備をしているだろうしし、折角作ってもらっている物をすぐに食べないのも申し訳ない。手を洗ってからダイニングに入ると、待ってましたとばかりにスチュアートが紅茶を持ってきてくれる。ヘンリーが作っていたのはフレンチトーストだった。甘い匂いが、アールグレイの香りと一緒に机の上から立ちこめる。
「いただきます」
早速ナイフとフォークを取って、フレンチトーストを口に運ぶ。昨日食べたサマープディングも絶品だったけれど、このフレンチトーストだって負けていない。それにスチュアートの淹れた紅茶は、フレンチトーストの甘みを支える絶妙な味だ。渋過ぎるということはなく、かと言って味がないということもない。気付けば夢中になって食べていて、お皿は空っぽになってしまった。
私が朝食を食べ終えたのを見計らって、スチュアートが新しい紅茶を淹れてくれる。紅茶に口を付けていると、扉が開いてオリバーがこちらへ歩いてきた。
「おはようございます、お嬢様。本日のご予定をお話させて頂いても?」
「ええ、大丈夫。ありがとうオリバー、それからおはよう」
「ふふ。では、本日ですが……まだお嬢様は本格的にお仕事をされるわけではございませんので、こちらの資料を軽くお読み頂くだけで結構です。お嬢様が不在の間、領地でも色々と起きておりましたので、それをできるだけ簡易的にまとめました。お嬢様は勉強がお好きでらっしゃいますから、過不足なくお読み頂けるかと思います」
「ありがとう。そうね、領主が領地で起きたことを知っていないんじゃお話にならないわ。ええと……執務室は、もう使ってもいいの?」
「はい。昼食になりましたらお迎えに上がります。それから、アフタヌーンティーのお時間もお取り致しますので、差し支えなければお嬢様の留学中のお話など、お聞かせ願えればと……」
ふっと微笑んで告げるオリバーに私は頷く。留学中に起きたことは沢山あって、オリバーや他の執事たちに是非聞いてほしかったのだ。
オリバーに椅子を引いてもらって席を立った私は、早速昨日案内された執務室である書斎へと足を運んだ。机の上にはさっきシリウスにお願いした薔薇の花が一輪、花瓶に挿されて咲いている。仕事が早いなあと思いながら大きな椅子に腰かけた私は、オリバーがまとめてくれた資料に目を通し始めた。私のいない間に干ばつなどで農作物が取れなくなった時期もあったらしい。これは詠むだけではダメだと判断し、羊皮紙を取り出すとペンでメモを取っていく。……叔父から領主を引き継ぐとは言っても、領民たちは私をお飾り程度にしか思わないことだろう。けれどそうだとしても、私は仕事を引き受けた以上中途半端にはしたくなかった。だってそれは、私を信頼してくれる執事たちにも失礼だと思うから。
昼食を終えた後に二時間ほど執務室に籠って、ようやく資料を読み終えることができた。オリバーは「簡易的にまとめました」と言っていたけれど、全っ然簡易的じゃなかった。……まあでも、オリバーはきっと、私ならこれくらい読み解けると思ったからこれを渡したんだろう。昔からそうだった。彼は私のことをきちんと見ている。私が彼を見てきたのと同じように。
「あれはいつのことだっけ……」
まだ私が小さかった頃。ヘンリーがお屋敷に来る前だったと思う。そのときオリバーはまだ家令ではなく、ただの執事に過ぎなかった。そんな彼が外で雪かきをしているのを、私は暖炉のお陰で温まった部屋の中から見ていた。
オリバーは手袋もせずに、せっせと雪を掻き分けていたのだ。馬車の通り道や、使用人たちがスムーズに移動できるようにと。そんな姿が見ていられなくて、私は手袋を持ってオリバーのところへ行った。風邪を引いたら辛いということはまだお子様だった私にも解る。オリバーが風邪を引いたら嫌だな、程度しか考えられずに行った行動であったことは明白だ。
「……私が渡したのは子供の手袋だったから、オリバーは使えなかったんだっけ?」
ピンクのウサギが刺繍された手袋は、大人の男の人が使うサイズではない。オリバーに手袋を渡すことができなくてぐずってしまった私を抱き上げて屋敷の中に戻ってくれた……んだったと、思う。
「ふふっ、懐かしいな……」
思い出しながら羽ペンの先に余ったインクを拭ったところで、コンコンコンコン、とノックの音が耳朶を打った。はぁいと返事をすれば、ドアが開いてヘンリーの顔が覗く。
「お嬢様、アフタヌーンティーの準備ができました」
「ありがとう。ちょうど今、資料を読み終えたところだったの」
「そうですか、良かった。では行きましょう、お嬢様」
ヘンリーは相変わらず人好きのする笑みを浮かべ、私を外へと誘導する。テラスに用意されたアフタヌーンティーの席は、まるで一流パティシエが作ったかのようなお菓子が並んでいた。
「これ、ヘンリーが作ったの?」
「はい。お嬢様に喜んで頂ければと思って、はりきってしまいました」
「嬉しいよ、ありがとう」
「いえ。では私は、キッチンにおりますので。オリバーを呼んできますね、お嬢様」
笑顔とお菓子を残して、彼は屋敷の中へと消えていく。用意されたティーセットは二つ分だが、アフタヌーンティーのお菓子やサンドイッチは私の席にしか並んでいない。話し相手として呼ばれるだけのオリバーに、食事を共にする理由はないからだろう。
「お待たせ致しました、お嬢様」
朝と同じ、乱れのないきっちりとした髪型のまま彼は現れる。結われた髪は艶やかで、もしかしたら私よりもサラサラかもしれないな、なんて思った。
「お茶を失礼します」
家令であるオリバーのスキルは、執事たちの中でもトップクラスだ。彼にできないことはないだろうというくらい、オリバーはなんでもできる。スチュアートに負けず劣らず美味しい紅茶をカップに注ぐと、オリバーは席にした。
「……アールグレイでございます」
薔薇の咲き乱れたテラスの管理もシリウスがしてくれているんだろうかと思いながら、淹れられた紅茶に口を付ける。うん、やっぱり美味しい。もう自分で紅茶を淹れようなんて気持ちにはならないだろうというくらいに。それから、ヘンリーの用意してくれたサンドイッチに手を付ける。これもやっぱり美味しかった。うちにはコックがいないから、調理も全て執事たちがやってくれているのだけれど……この腕前なら、コックにもなれるんじゃないだろうか。
「お嬢様は……本当にお綺麗になられた」
「もう……オリバーったら。沢山褒めてくれてありがとう」
「私は真実を申し上げているだけでございますから。留学先でもさぞ、多くの男心を悩ませたことでしょう……?」
お嬢様のことですから、と言いながらオリバーは私にそう問う。それから、彼もティーカップを手にした。アールグレイのいい匂いが私と彼の間を抜けていく。苦笑いを浮かべるオリバーに答える言葉が見つからず、私は小さく頷いた。こくり。
「やはり、そうでしたか……誰かとお付き合いはされたのですか?」
切なげな表情を浮かべたまま、オリバーは私に再び問う。私はこれには、きっぱりと答えを返すことができた。留学期間は長かったし、それなりに異性との交遊もあった。けれど、誰かと交際をするまでには至らず、結局恋人ができることはなかった。
「告白をしてくれたかたもいたわ。でも……そういう気分になれなかったの。もちろん、異性との交際だって立派な勉強だとは思うわ。でも、どうしてかしら。留学中は、そういう気分になれなくて。何人か声をかけてくださったけれど、ぜんぶ断ってしまった」
「なるほど……どの男性も、想いを遂げることはできなかった、と」
「……そういうことになるわね。異国の文化や今後のためになることを学ぶために留学をしたのだから、恋愛をしている暇はないと、心のどこかでは思っていたのかもしれないわ。けれど、私のように留学してきた女の子たちはあっちで恋人を作っていたから……もしかしたら、彼らは私に幻滅したかもしれないわね」
先程言ったように、私は恋愛だって勉強になることはあると思っている。けれど私に愛を告げてきた彼らと付き合うことで、一体何があったのだろう。私は……そう思ってしまったのかもしれない。
そしてきっと、心のどこかで執事たちと彼らを比べていたのではないかとも、思う。
「相手を傷付けたなど、後悔されることはありません。お嬢様は一人一人と真摯に向かい合っていらしたのでしょう。全ての恋が実るわけではありません。仕方の無いことです」
「オリバー……」
オリバーは微笑むと、空になったティーカップに二杯目の紅茶を注いでくれた。空になった最下段の皿から、一つ上に乗った菓子に手を伸ばす。苺のクリームが挟まれたそれは、紅茶にぴったりの程良い甘さだった。
「しかし……そのお心も綺麗なままなのですね?」
「……そうかしら。私は結局、エゴイストだと思う。彼らの利益より、自分の利益を取っただけよ」
「そんなことはございません。お嬢様は、常に他人のことを考えて動ける優しいお方です。現にあなたは、私や他の使用人たちにいつでも優しくしてくださった。覚えておいでですか? 私を助けてくださった日のこと」
そう言って、オリバーは「その日」のことを思い出そうとするかのように遠くを見つめた。助けてくれた、日。それはさっき、私が書斎で考えていたあの日のことだろう。
「お嬢様にとっては些細なことだったのかもしれません。しかし、私にはとても大きな出来事でしたので……大雪が降った日、私は一人雪かきをしておりました。手袋もせずに励んでいた私の手は真っ赤になっていた。その手を見て、お嬢様は優しく温かな手で包み込んでくださった……その温もりは今でも忘れられません」
「……子供用の手袋じゃ、あなたの手を温められなかったものね。苦肉の策だったんだと思うわ」
「それでも、お嬢様が私のことを気遣ってくださったことに変わりはありません。折に触れて、あなたはいつも優しさを私に分け与えてくださった。それにどれだけ救われたことか……」
「大げさよ、大したことはしていないわ。それに……その後のオリバーの方が、もっと優しかった。手袋を渡せなかったからとぐずる私を、あなたは暖かい屋敷の中まで連れていってくれた。その後すぐ、雪かきに戻ってしまったでしょう? 私、あなたの仕事の邪魔をしてしまったんじゃないかと不安になったくらいなのよ」
あんなに暖かい室内に一度入って、それからまた極寒の外へ戻るのがどれだけ辛いことか。あのときはよく解らなかったけれど、今なら解る。オリバーは外へ出てきた私のためにああしてくれたのだと。
けれどそう言っても、オリバーは変わらずにこやかな笑みを浮かべたままだった。手持ち無沙汰になって、私は次の段に乗ったお菓子を食べ進める。
「……大したことはしていない。お嬢様はいつもそう仰られますね」
「だって、私……」
「そう謙遜なさらないでください。お嬢様から受ける一つ一つの優しさは小さくても、次第に私の中で大きなものへと成長していった。その優しさに、私はいつも感謝しておりました。お嬢様がいらっしゃるから、毎日、楽しく働くことができる」
オリバーは一度言葉を打ち切って、それから紅茶に口を付けた。カップに入っているのは確かに私と同じアールグレイのはずなのに、彼が飲んでいるだけでまるで高級なウィスキーのように見えてくるから不思議だ。確かに色身は似ているけれど、外身は同じ、ティーカップのはずなのに。
「しかし……」
彼が言葉を続けようとする。けれど私たちの間にあった静寂は、ドアの開く音によって打ち切られてしまった。ドアの起こした風で薔薇が揺れる。オリバーが視線を投げた先には、皿を持ったヘンリーが立っていた。
「お嬢様、ケーキをお持ちしました。……私、お邪魔してしまいましたか?」
「……いや。私は沢山お嬢様のお話を聞かせてもらった。ヘンリー、次は君がお嬢様の話をお聞きするといい」
「えっ、私でいいのですか?」
オリバーは興が削がれたとばかりに告げて、それから私にいつも通りの柔和な笑みを向ける。それでは失礼しますと頭を下げると、オリバーは足早に去っていってしまった。残された椅子に、ヘンリーは少し迷ってから腰かける。空いていたカップをトレーの上に下げると、彼は予備の食器を取り出した。
「オリバー、怒っちゃったかしら?」
「いえ……私がお二人の邪魔をしてしまったからです。お嬢様は悪くありませんよ」
「……ありがとう、ヘンリー。えっと、このケーキもヘンリーが作ったの?」
「ええ。お嬢様が帰ってくると伺ってから、今のお嬢様はどんなケーキが好きなのだろうかと考えていたんです。お嬢様に食べて頂きたくて、つい……こんなに沢山は、食べられないでしょうか?」
「ううん、嬉しい。それにどれも美味しそう。ヘンリーのお勧めはどれ?」
白いお皿の上に並んだケーキは可愛らしい色合いで、目がうろうろとケーキの上を彷徨ってしまう。ヘンリーはピンク色のクリームが添えられたケーキをよそうと、フォークですとん、と一口サイズに切り分けてくれた。
「さあ、お嬢様。お口を大きく開けて……あーん、してください?」
「もう、ヘンリーったら……昔とは違うんだし、恥ずかしいよ……」
昔はまだ彼も小さかったし、今以上に弟のように接していた。切り分けたケーキを二人で食べることもあった。本当は使用人が食事の席に同席することはないのだけれど、ヘンリーはまだ小さな男の子だったのでお父様も許していたのだ。
あの頃は、私が彼の口にケーキを運ぶことの方が多かったけれど……今はちょっと、恥ずかしい。しかもただでさえさっきまでオリバーと異性の話をしていたから、余計に感情がぐるぐると渦巻いていく。
しかし私が口を開かないのを見て、ヘンリーは悲しそうに眉尻を下げた。
「照れておられるのですか、お嬢様? 大丈夫です。ここには、私しかおりません」
「で、でも……」
「……それとも私のケーキは、お嫌ですか。お嬢様に楽しんで頂こうと思って、ご用意したのに……」
曇る笑顔。今にも泣きそうな執事の顔に、私はしぶしぶと応じることにした。大口を開けるのはやっぱり恥ずかしかったので、小さく、ケーキが入るくらいに口を開く。するとヘンリーはぱあっと明るい笑顔になり、銀色のフォークを私の口元まで運んでくれた。
「……ふっ」
くすりと漏れる笑みの後、小さな声で彼が何かを言った気がした。けれどそれは私の耳に届かず、紅茶に融けて消えていく。ストロベリークリームが口の中に運ばれてから、私はヘンリーに何か言ったか尋ねた。
「なんでもありませんよ、お嬢様? ほら、もう一口。あーん、してください」
にこやかに微笑んでいるヘンリーは、いつも通りの少年……の、はずなのに。
どうしてかその笑顔には妙な威圧感を感じる。けれどここで退くわけもいかず、結局そのケーキを一つ食べ終わるまで、私はヘンリーから「あーん」をされ続けた。
私がお腹いっぱいになってギブアップを告げると彼は少し淋しそうな顔をしたが、ケーキは明日でも食べられるということでティータイムはお開きになった。オリバーから渡された資料はもう読み終えたし、あとは夕飯まで急いでやるべきこともない。お腹がいっぱいのままでは、と思い立ち、私はテラスを後にした。向かう先はガーデンだ。アフタヌーンティーを始める前に書斎から見たガーデンに、いつも通り花々の手入れを行うシリウスの姿があった。彼が屋敷に戻ってきたところは見なかったから、恐らくまだあそこにいることだろう。色とりどりの薔薇が咲き乱れる庭園を奥へと進んでいくと、シリウスは花壇の一角で植え替えを行っているところだった。
「シリウス」
「お嬢様。いらしてくださったのですね」
「ええ。植え替えをやっているの?」
「はい。ここにはハーブを植えていたのですが、繁殖力がすごかったので、丸ごと移動したんです。害虫駆除には持ってこいなのですが、いかんせん量が……増えてしまうので」
「なるほど……いつもガーデンを綺麗に保ってくれてありがとう」
「いえ。ここはお嬢様が大切にされているお庭ですからね。そうだ、お嬢様が戻ってくると伺って、あちらをご用意したんです」
あちら、と言いながらシリウスの手が庭園の中心にそびえ立つ大樹を指し示した。昔と変わらず、そこにはブランコが下がっている。私がこの屋敷を出ていってから、あのブランコは誰かに使われたのだろうか――そんなことを考えながら視線を下へ向ければ、そこには見慣れない白いベンチがあった。
「あのベンチのこと?」
「はい、お嬢様。昔はあのブランコを楽しまれておりましたが、もう乗られないかと思ったので、こちらをご用意させて頂きました。ベンチでしたら、座ってガーデンの景色を一望できるでしょう?」
「……ありがとう、シリウス! 私、とっても嬉しいわ。ねえ、早速座ってみてもいいかしら?」
「勿論です。あ、ブランコの方もきちんと整備はしておりますから、そちらもお使い頂いても大丈夫ですよ」
「ふふ、気が向いたらね」
流石にこの歳になってブランコを漕ぐのは気恥ずかしいものがある。シリウスが植え替えに戻ったのを見送ってから、私は白いベンチに腰かけた。ブランコとベンチのあるこの場所は庭園の中で少し盛り上がったところに位置していて、ここからは綺麗な薔薇の垣根が一望できるようになっている。そよそよと夏風が私の髪を揺らしていって、お腹いっぱいということもあってかなんだか眠くなってきてしまった。……こんなところで眠りこけてしまうなんてはしたない、そう心の中から警鐘が聞こえてくる。けれどその忠告を黙殺して、私はすっと瞳を閉じてしまった。
「……お嬢様?」
寝てしまわれたのですね、と声が零れる。ベンチに横たわった彼女は、くぅくぅと規則的な寝息を立てていた。まだ彼女が少女だった頃、遊び疲れて眠っている姿を何度か見かけたことがある。とは言っても、大抵の場合彼女の遊びに付き合わされるのはモリスかリースの二人なので、眠ってしまった彼女の隣にいるのも必然的にその二人だったのだが。シリウスの隣で彼女が眠ったことは、なかったように思う。
「こうして眠ってしまえば、貴女は他の男のことなど考えることもないだろうに……」
長い睫毛は伏せられて、そのうつくしい瞳に誰かを映すことはない。こうしてシリウスが傍にいれば、彼女が目を覚ましたときに視界を占有することができる。今すぐ起きてくれればいいのにと思いながら、シリウスは彼女の髪をさらりと撫でた。
――彼女はきっと、根っからのファム・ファタールなのだろうとシリウスは思う。男たちを手のひらの上で弄んで、最後には突き落とす。そして彼女の手には何も残らない。彼女の細い指が最後に抱き締めるのは、男の身体ではなく彼女自身の肩なのだ。
「美しく、高慢な我が主……」
眠っている彼女の頬にキスを落とす。親愛のキスなんて軽いものではない。毒を含んだ、重たい口付けだ。いつか自分の唇が彼女の唇に触れることはくるのだろうか、と考える。薔薇垣の奥、広い屋敷では今も六人の執事たちが自分の仕事に精を出していることだろう。けれどどれだけ純朴な執事を装っていたところで、彼らだって男だ。美しく成長したお嬢様相手に、舌心を抱かないわけがないだろう。だって自分たちは、彼女をずっと見てきたのだから。誰かに手紙が届く度、早く自分のところにも手紙を書いて寄越してはくれないかとやきもきする毎日を、七人の執事たちは五年以上も過ごしてきた。こちらから手紙を送ってやろうかと思ったことだってあった。けれどそれを、身分は許してくれない。例え生まれが貴族であろうと平民であろうと、今の彼らは主に仕える従僕に過ぎないのだから。
「……んん、」
どうやら眠ってしまっていたらしい。目を覚ましたら、すぐ近くに見慣れた銀髪があった。シリウスはベンチに腰かけ、私の頭を肩で支えてくれている。メガネの奥に輝くトパーズは、優しく私を見つめた。
「おはようございます、お嬢様。失礼だとは思ったのですが、お嬢様が倒れてしまってはと思い……ご無礼をお許しください」
「そんな、大丈夫よ。私の方こそ、迷惑をかけてしまってごめんなさい」
「お嬢様は本当にお優しいのですね。ふふ……とても気持ちよく眠っていらっしゃるようでしたから、起こすのも忍びなく……お時間の方は大丈夫ですか?」
シリウスの言葉に空を見れば、太陽がゆっくりと西へ傾きつつある。ゆっくりと立ち上がって、私は屋敷を見遣った。キッチンに明かりが点いているから、夕飯の準備を進めてくれているのだろう。
「私は大丈夫。シリウスの方こそ、私のせいでお仕事が滞ってしまっていない? 大丈夫かしら……」
「植え替えは明日も続く作業ですから、平気ですよ。お嬢様にご心配頂けただけで私は満足です。ですが、外で眠るのは危険ですから、お気を付けくださいね。さ、お嬢様。あまり外にいると風邪を引いてしまいます。屋敷までお送りしましょう」
手を洗ってきたのか、シリウスの腕には土が付いていなかった。白い手袋に包まれた手を取って屋敷まで戻る。シリウスはまだ片付けがあるとかでガーデンに戻ってしまったので、夕食までどうしたものかと廊下を歩いていたら、軽い音が聞こえてきた。
「あ」
遊戯室のドアを開けて中を覗き見れば、スチュアートが撞球の練習をしているところだった。長いキュー構える姿は、とても様になっている。思わず見蕩れてしまっていたら、カン! と鋭い音が遊戯室の中に響き渡った。
「何覗き見してんだよ」
「あ……ご、ごめん、スチュアート。スチュアートが格好良かったから……」
「言ってくれるじゃねぇか。お前、あっちではビリヤード、やったりしたか?」
「ううん。手紙にも書いたけど、遊ぶ暇は全然なかったの。最初の頃はあっちの言葉を覚えるので必死だったし、落ち着いてからも……その、周りの女の子たちはチェスやビリヤードをやり慣れていなくって。何回やっても私が勝ってしまうから、ね……彼女たちに恥をかかせたかったわけじゃないけど、負け続きになってしまったらやる気もなくなってしまうでしょ?」
「正論だ」
その内誘うのも時間の無駄だと思い始めて、私は完全に遊戯というものを生活から追い出した。オリバーに言われたように私に声をかけてくる男の子もいたけれど、彼らとチェスをしようという気にもなれなかったのだ。私は幼い頃から父やスチュアートと勝負をしていたせいで、か弱い女の子ではなくなってしまったから。けれど彼らを立たせるためにわざと負けてやるというのは、私のプライドが許さなかった。
「夕食まではまだ時間がある。俺と一勝負しようぜ」
「いいの?」
「ああ。だってお前、帰ってきたときからずっとチェスがやりたくて仕方ないって顔してた。今だって遊戯室ここに来たのは、俺がいるって解ってたからだろ?」
言い返す言葉は何もなかった。私は窓の近くに置かれたテーブルの椅子を引いて座る。チェス盤に並んでいるのは白と黒の駒たち。私が座ったのは黒い駒がある方だ。スチュアートはへぇ、と愉しそうに笑うと、キューを机の上に置いて椅子を引いた。
「なあ、ただの勝負じゃ面白くねぇだろ。賭けでもしねえか?」
「賭け?」
「『負けた方が勝った方の言いなりになる』っていうルールはどうだ? まあ、勝つのは俺に決まってるけど」
「……言うわね、スチュアート。いいわ、乗る。もちろん勝つのは、私だけど」
「ハ、」
くつくつと笑うスチュアートは、昔から変わっていない。彼はお父様よりチェスが強い。この遊戯室は彼の領域だ。私だって、久々のチェスで楽に勝てるとは思ってもいない。けれど、退きたくはなかった。ずっと望んでいた彼との再戦。絶対に、私が勝ってみせる。
スチュアートは黒いリボンタイを無造作に外すと、シャツの襟を緩めた。白い手袋は床に投げ捨てて、燕尾服の袖も適当に捲り上げる。とてもじゃないが主の前で見せる姿ではないけれど、それは彼が私を好敵手だと認めてくれているからこその行動だ。叩き付けられた手袋は決闘の意味を孕んでいる。シャツの隙間から、彼がずっと身に着けている赤いペンダントは蟲惑的で、思わずうっとりしてしまいそうになった。
「始めようぜ」
「うん」
コン、とスチュアートの指に摘まれた白のポーンがチェス盤を蹴る。二人きりの部屋で、勝負が幕を開けた。
――それからどれだけの間、二人で駒を動かし続けたことだろう。先攻と後攻を何度か入れ替えて、私たちは誰も来ないのをいいことに白熱した勝負を繰り広げていた。
「チェック」
スチュアートが手にした黒のナイトが、白のキングを追い詰める。次の手で私が白のキングを動かしても、逃げ道はいずれ封鎖され、黒のキングに一矢報いることはできやしない。私は仕方なく両手を挙げ、参りました、とスチュアートに告げる。
「自信あったんだけどなぁ」
「はは、昔に比べりゃ相当強くなってたぜ。でも、俺だって同じ年月を重ねてたってことだ」
「……それもそうね。ところで、スチュアート。私が負けたけれど、何をすればいいの?」
ヘンリーの作ったケーキを献上して欲しいとか? なんて問うてみたら、スチュアートがハァとためいきを零した。その胸元で赤が揺れるものだからつい目で追ってしまって、ハッとしてすぐ視線を逸らした。
「そうだな、じゃあ……」
どうしたものかとスチュアートが襟を直しながら告げたところで、二人きりの部屋だった遊戯室にノックの音が響く。窓の外はもうすっかり夜の帳が降り切っていた。
「お嬢様、こちらにいらっしゃいますか? 夕食の準備ができました」
「あ……ありがとう、モリス。ごめんね、スチュアート。私行かなくちゃ」
「ああ、ゆっくり飯食ってこい。俺のことは後でいい」
「ありがとう。じゃあ、また後で」
スチュアートの横を抜けて、私はモリスの元へ向かった。ぱたんと閉じたドアの向こう側で彼がどんな顔をしているかなんて、知ることはできやしない。
モリスに案内されてダイニングへ向かうと、長いテーブルに料理が並んでいた。本来は父が座るべき上座に並べられた皿は、私がそこに座るべきであることを示している。ごくりと生唾を飲み込んでから、モリスに引かれた椅子に腰かけた。
横に控えたモリスがシャンパンのボトルを持ち、グラスに白いそれを注いでいく。ぱちぱちとゆるやかに上がってくる泡は、それが上物であることを示していた。
ヘンリーたちが用意したのであろう夕食は、昼食以上に豪華だった。私が自炊していたときに食べていたものとは大違いだ。けれどあの頃は、同級生とわいわいお喋りをしながら、女の子だけの秘密の花園のように食事をしていた。それが、少し恋しい。お父様たちと館にいた頃は三人でこのテーブルを囲んでいたから、というのもあるのだろう。
ちらりと後ろを振り向けば、控えていたオリバーが水をグラスに注いでくれる。そういうわけじゃ、ないんだけどな。けれどそれを彼やモリスに告げるわけにもいかないと思って、私は出てきた料理をデザートまできちんと食べ終えた。
「お嬢様?」
「あ……いえ、何でもないわ。ありがとう、二人とも。とっても美味しかった。ヘンリーたちにも伝えておいてもらえるかしら?」
「はい、勿論。お休みになられますか?」
「ええ、シャワーを浴びたら。ご馳走様」
モリスがタイミングを合わせて椅子を引いてくれる。二人にありがとうともう一度告げて、私は自室へと戻った。薔薇の香りが揺れる部屋に入って、だらしないとは思いながらもベッドに飛び込む。そのままシャツのボタンを外して、はあとためいきを零した。
「……みんなでご飯を食べられたらいいのに」
一人のテーブルは、広過ぎる。あんなに椅子も沢山あるんだから、みんなで楽しく食事をした方がいいんじゃないだろうか、というのは――やっぱり私のワガママだろうか。執事たちだってそれぞれの仕事があるのだから、その仕事を打ち切ってまで食事の時間を合わせるというのは非合理的だろう。
「でも……」
食事は絶対に、誰かとした方が楽しいに決まっている。
悶々とした思考のままバスルームに入った私は、汗をシャワーで洗い流した。しっとりと濡れた髪にタオルを被せて、寝巻きに着替えると部屋へ戻る。フィリップが新しく用意してくれたドレッサーの前で、ぼうっと自分の顔を見ていた。
少女だった私は、もういない。鏡の中にいるのは、ワガママを言うことが許されなくなった主の私。柔らかなタオルはモリスが洗濯を頑張ってくれた賜物だろう。それで水気を吸い取りながら、私はぽつりと執事たちの名前を呼んだ。
「お嬢様?」
ノックの音。モリスの声だ。寝巻きのままだったが、私はドアを開けて彼の姿を視認した。きっちりとネクタイを締めた彼は風呂上がりの私を見て少し視線を逸らしたが、すぐに入室許可を求めてくる。もちろん断る理由もないので、私は彼を招き入れた。
「失礼します、お嬢様。……その、よろしければ私が髪を乾かしましょうか?」
「いいの?」
「ええ。お任せください」
モリスにタオルを手渡すと、彼は丁寧に髪を拭いて、ついでに梳いていってくれる。ドレッサー越しに見る彼の姿はとても紳士的で、その瞳が私だけに向けられていると思うと心の奥底が跳ねる気がした。
「……ねえ、モリス」
「はい、なんでしょう?」
「私が、一緒に食事をしたいって言ったら迷惑かしら?」
「ええと……」
何と返すべきか迷っているようだった。執事として、主の命令に逆らうことはできない。けれど執事であるからこそ、主と同じ食卓に付くこともできない。板挟みの状況で、彼は正しい答えを探している。どう言ったら私が傷付かない答えを出せるのか、を。
「ごめんね、困らせてしまって」
「ああ、いえ……! 私の方こそ、お嬢様を困らせてしまい……申し訳ございません」
ごめんね、ともう一度謝罪すると、モリスは微かな笑みを見せてくれた。それが作られた笑顔であることは明白だ。
「広いテーブルに一人っていうのは、意外と悲しいなって思ったのよ。もうそんなワガママを言える年齢じゃないことは解っているつもりなのだけれど」
「……いえ。私たちこそ、お嬢様にご迷惑をかけてしまいました。共に食事をする、というのは……もちろん、お嬢様がそれを望まれるのであれば、私個人としては是非、ご一緒させて頂きたく思います」
「でも……モリスたちは執事で、私は主。その壁を越えるのは、大変なのも、解っているわ。スチュアートやヘンリーだったらしれっと座ってきそうな気もするけれど」
「はは……彼らなら、そうですね」
でも、それじゃダメなのだ。私はモリスやオリバーとも食事を一緒にしたい。二人だけじゃない、八人でテーブルを囲みたいと思っている。
だってこの家に住む彼らは、私にとって家族なのだから。
「……さ、お嬢様。初夏とは言え、夜は冷えます。髪も乾きましたし、今夜はもうお休みになられた方がよろしいかと」
「そうね、そうするわ。髪、ありがとう。食事のことは……一旦忘れて。迷惑かけてごめんなさい、モリス」
「迷惑なんて、仰らないでください。私にとってはお嬢様が全てです。お嬢様の是とすることを、私は行います。……おやすみなさい、お嬢様」
モリスの唇が頬に触れる。私も彼の頬にキスを返して、彼に贈られたネグリジェのままベッドに身体を横たえた。
明かりが消え、モリスの足音が去っていくのが聞こえる。……食事の件は、明日オリバーに相談することにしよう。そう決めて、私はきゅっと瞳を閉じた。
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