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人魚の入水

「ん〜……止む気配ないね、雨」
「そうだね」
 自主練を終えた日和くんと待ち合わせをして大学を出て帰宅する途中、バケツをひっくり返したような雨に襲われた。手近なカフェもなく、仕方なしにあたしたちが駆け込んだ先はシャッターの閉まったお店の軒先。かろうじて雨を避けることくらいはできるが、傘を持っていなかったあたしたちは二人してびしょ濡れになっていた。ぎゅ、とスカートの裾を絞れば足元に水が落ちていく。周りを見渡せば同じようにゲリラ豪雨が終わるのを待っている人たちの姿があった。
 日和くんと並んで空を見上げつつ、カバンからスマホを取り出す。お天気アプリで雨雲の動きをチェックしてみるが、どうにもしばらく雨は止みそうにない。てっきりゲリラ豪雨だから三十分もすれば晴れると思ったんだけどな。
ちゃん、寒くない?」
「あ、うん。大丈夫だよ」
 ぴたりとシャツが肌に張り付いてはいるものの、気温が高いこともあって寒くはない。色の濃い服を着ていたから下着が透けているなんてこともないし。
「なら良かった。天気はどうだって?」
「しばらく雨っぽいね。どうしよっか日和くん」
 ここから家までは歩いて十五分くらい。歩けない距離ではないけれど、コンクリートを叩き付ける雨を見ていると傘もなく移動する気は失せてくる。道の向こう側でしきりに時計を気にしているサラリーマンは、もしかしたらこれから商談とかだったのかもしれない。びしょ濡れのスーツで移動するわけにはいかないだろうし、大変だなあ。
「ただ待ってるのも時間の無駄だよね」
「そうだね。ここからだと……日和くんの家よりあたしの家の方が近いか。歩いて十五分くらいだから、走れば十分ってとこ?」
「ん〜……まあ、ちゃんの家に上がる口実としてはイイんじゃな、いてっ」
「……すぐそういうこと言うんだから」
 あんまり軽いことばっかり言ってると本気にしてもらえなくなるぞ。そう思いながらぽかり、日和くんの脇腹をつついてやる。あまりダメージは与えられなかったのか彼はくすぐったさそうな顔をして、メガネの奥で鶸色の瞳をゆるめた。
「まあ僕としてはちゃんとこうしてお喋りしてる時間は好きなんだけど、それは家でもできるしね。どうしたい?」
……日和くんは、狡い。
 あくまで決定権をあたしに与えようとする。あたしに決めさせることで、逃げ道を封鎖するのだ。日和くんの右手がするりとあたしの左手を掬い上げて指を絡めた。繋がれた手を見遣ると日和くんによって彩られた爪が視界に入る。じわじわと侵食されていることにはとっくに気付いているけれど――日和くんと出会った頃のあたしは、まさかこんなに自分の生活に彼が介入してくることになるとは思ってもいなかっただろう。
「走って帰ろっか、日和くん」
「りょーかい」
 ぱ、と手を離していつも通りの胡散臭い笑顔を零した日和くんは、バッグを外すとあたしに押し付けた。それから羽織っていたシャツを脱ぐ。雨に降られたことで濡れてはいるものの、カバンの下になっていたこともあってかあたしのスカートほど濡れてはいない。日和くんはTシャツ姿になるとあたしに預けていたバッグを受け取って身体の前に回した。
「はいちゃん」
「え? 何? 行動が全く読めなくて怖いんだけど日和くん」
「僕がちゃんを背負って走るからさ。焼け石に水だろうけど僕のシャツ被っててよ」
 ええと……つまり。
 日和くんがあたしを背負って走り、あたしは日和くんのシャツで雨を避けろ、ということか。
「至れり尽くせりじゃない? 流石ミスター過保護だね日和くん」
「はは、ちゃん相手だからだよ。郁弥だったら普通に走らせるし。ていうか普通に君を走らせるわけにはいかないでしょ? ちゃん過呼吸気味だし」
「ま……まあ、そうだけど。でもいいの? 重いよ?」
「気にするほどは重くないよ。ほら、早く乗って」
 決して「そんなことはないよ」と言わない辺り、日和くんは中途半端に優しい。ぞくりとするような甘ったるい優しさ。そんな彼に逆らうのもバカらしいので、あたしはひょいと日和くんの背中に飛び乗った。トートバッグを肩に下げたまま腕を彼の肩から胸にかけて回して、それからシャツを頭から被る。あたしの服も濡れてるからシャツが濡れてることなんてさして気にならなかった。よいしょ、なんて言う日和くんの背中は筋肉がしっかりついていて逞しい。彼の専門はバックだから、肩周りの筋肉が他の水泳選手よりついているとか。郁弥くんと比べると胸板も厚い。夏前に日和くんが試合をした……ええと、橘くん。彼もこういう風に厚い身体をしていたと思う。無駄なくしっかりついた筋肉のおかげで早く泳ぐことができるんだもんなあ。
「……ちゃん、手つきがやらしいんだけど」
「え?」
「さっきからわさわさ動かしすぎ」
「あ……ご、ごめん日和くん! こうやって触ることなんてないから、つい……」
「あはは、いいよ別に怒ってないから。そんなに触ってみたいんだったらいつでも触らせてあげるって。それより、ちゃんと捕まっててね?」
「うん」
 行くよ、と声をかけて、日和くんが軒下を飛び出した。雨が勢いよくアスファルトとあたしたちを叩いていく。痛いくらいだ、と思いながら日和くんの首に回した腕に力を入れ、シャツが落ちていかないように抑える。もうすっかりびしょ濡れになったスニーカーは水たまりを避けることなんてせず、ばしゃんと雨水を蹴飛ばしていった。
 そのままあたしを背負って走り続けた日和くんは、十分もしないうちにあたしのマンションのエントランスに到着した。こんなびしょ濡れの状態でエントランスに入ったら掃除が大変かな、と思ったが既にポストの前は濡れに濡れている。どうやら他にも走って帰ってきた人がいたらしい。まあ仕方ないし、と思いつつロックを解除し、日和くんの手を取って自動ドアの奥に進む。
「ありがと、日和くん」
「どういたしまして。ちゃん大丈夫だった?」
「あたしは平気。それより日和くんの方が心配だよ。風邪引かないでね?」
「うん、大丈夫」
 エレベーターのぽーんという音が聞こえたので会話を打ち切る。すーっと上がるエレベーターの中にはあたしたちだけ。部屋の前まで着いて鍵を開け、ぱちんと玄関の電気を点ける。床は……後で拭けばいいか。
「タオル取ってくるね」
 そう告げ、スニーカーを脱いでぺたぺたとフローリングを進む。お風呂場のタオルを二人分掴んで戻ると、日和くんはぺたりと張り付いた前髪を鬱陶しそうに掻き上げているところだった。レンズが濡れてしまったメガネを外してふぅ、と一息吐く彼はいやに色っぽい。普段はだいぶおかしい男ではあるけれど、黙っていればかっこいいことこの上ないのが遠野日和だ。実際、入学して二週間で同じ学部の女の子から告白されている。
「日和くん」
「ん? あ、ありがと……ごめん、今メガネしてないからあんま見えないや」
「仕方ないなあ」
 ぱさりとタオルを日和くんの頭に乗せ、手を引いて家の中へ誘導する。ぐしょぐしょになったスニーカーは後でもう使わないレジュメでも詰め込んでおくとしよう。そのまま脱衣所まで彼を誘導し、新しいタオルでメガネを拭いて渡す。メガネがなくても格好いいけれど、やっぱり黒縁の大きなメガネをかけている方が彼らしい。まあお風呂入ったら外しちゃうんだけど。
「お風呂沸かすから、先入って。シャワー浴びてる間に浴槽も準備できると思うから」
「え〜……ここちゃんの家なんだから家主が先に入るべきだよ」
「家主がいいって言ってるんだからいいの。それに日和くんの方が寒かったでしょ?」
「そんなこともないけど……ちゃん体弱いんだから、早く温まった方がいいんじゃない?」
「それを言ったら日和くんの方こそ、試合が近いんだから風邪引くわけにいかないでしょ」
 むむむ、堂々巡りだ。こう言い出したときの日和くんを退かせるのは郁弥くんでも難しい。しばしの無言の攻防。やがて日和くんははあ、と解りやすい溜息を零してあたしを見た。
「もう、ちゃんには勝てないよ。じゃあお先に失礼します」
「うむ、宜しい。服……は、適当になんか出しておくね」
「お願い」
 足元に転がった洗濯カゴの中に日和くんから借りていたシャツを落とす。それからスカートのホックを外して、水分を含みまくったスカートとカットソーも中に入れた。目の前の日和くんが「あのさぁ〜……」と言ってくるけど黙殺。濡れた服を全部取り払ってしまったので下着しか残っていないが、タオルで髪を抑えながら「なに」と返してやれば日和くんは押し黙った。家主はあたしなのだ。あたしがあたしの家の中で何をしようが勝手というものである。
「お願いだから軽率にそういうことしないで……」
「日和くんだってするでしょ」
「僕はいいの! でもちゃんはダメ」
「え〜……」
「とにかくちゃんも早く服着てきて。……あ、それとも何? 一緒に入る?」
 にやりと笑って日和くんが告げる。言いながらTシャツを脱いだ彼は、あたしを挑発するかのように唇をにやりと歪ませた。水を吸って重くなったシャツがカゴの中に落とされる。本気なのか冗談なのか解らない顔ばかり見せる彼は、いつもこうやってあたしを困らせる。郁弥くんのことも困らせる。生来、誰かを困らせるのが好きなタチなのかもしれない。
 でもあたしだって伊達に日和くんと過ごしてきたわけではないので、濡れた髪をタオルでぎゅっと絞りながら日和くん、と彼の名前を呼んだ。
「いいよ」
「……ちゃん、だいぶ狡いよね。そう言ったら僕が退くって解ってるんでしょ」
「ふふ、その通りだよ日和くん。まあ本当に一緒に入ってもいいんだけど、」
 一度言葉を打ち切って、あたしは日和くんが頭から掛けていたタオルをわしわしと左右に引っ張った。チョコレート色の髪がぐしゃぐしゃになるのを見て、にやりと笑い返してやる。
「乾燥機かけなきゃだから、後にする。ほらほら日和くん、早く入っちゃって!」
「わっ! もう……ちゃんには勝てそうにないよねえ。ちゃんもちゃんとあったかい服着てきてよ」
「うん。じゃあね〜」
 ぺたぺたとフローリングの上を歩いて脱衣所から出る。ドア閉めると、磨りガラスの向こう側で日和くんが大きな溜息を零したのが解った。うん、たまにはあたしだってやり返してやらないとね。
 どうせこの流れだと日和くんは泊まっていくだろうし、夕飯の準備もしちゃおう。何にしようかなと考えながら、あたしはクローゼットから部屋着と日和くんの着替えを取り出した。



2018.08.06 柿村こけら


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