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薬に似せたお菓子のつくり
「体育祭?」
「うん、体育祭」
五時間目の終わりから登校してきたあたしに、前の席に座る日和くんが説明してくれた。潮音崎高校は現代日本において普通の高校であり、従って行事として体育祭が存在している。秋の恒例行事である体育祭が今年も行われるため、学級活動が振り当てられている六時間目にはその体育祭についての打ち合わせを行うとのことだった。
「、検査大丈夫だった?」
「ばっちり、問題なしだよ郁弥くん。久々にレントゲンとか撮ったから時間かかっちゃったけど」
「元々五時間目から登校とは聞いてたけど、淡夏ちゃんがいないとソワソワしちゃうね。何かあったのかなんて考えちゃった」
椅子の背に腕を預けて日和くんが言う。彼が心配性なのは知っているが、最近じわじわと心配性のレベルが上がっている気がした。元々アメリカにいた頃は郁弥くんだけに向けられていた心配が、日本に戻ってきて潮音崎に転入してからはあたしにも向けられるようになったからだろうか。
あたしがアメリカでの手術を終え、日本に戻ってきたのは夏になる少し前。郁弥くんと夏也さん、それから日和くんは一足先に日本に戻ってきていた。郁弥くんと日和くんが水泳の強豪であるここ潮音崎高校に転入したということは二人から前もって聞いていたので、手術を終え日本に戻る、と父に告げられたとき、あたしはワガママだということは承知の上で転入先を二人と同じにしてもらった次第だ。もう少し静かな田舎での暮らしを望んでいた父はちょっと残念かつ心配そうだったけど、最終的には「が元気になれるのなら」とあたしの選択を許可してくれた。病気で一年遅れてしまったあたしは今から友達を作るのが難しいため(あたし的にはやる気でも、周りには抵抗があるだろう。何せ同学年とは言ってもは一歳年上の女の子なのだから)、あたしがアメリカで仲良くしていた二人のいる学校に転入する、というのは正直なところ最適解だったようにも思う。あたしの病気のことも解ってくれてるから、今更説明をする必要もなかったしね。
流石に二人と同じクラスになったのは父が学校に説明を通してくれたからだろうが――なんて思いながら、あたしは日和くんがキープしておいてくれたプリントを見る。体育祭。今までは見学ばかりだったが、手術を終えて以前より運動ができるようになったあたしは何か一つくらい参加できるかもしれない。
「誰がどの競技に出るか六限で話し合いだって。ちゃんは事情が事情だし、あんまり疲れないやつにするよね?」
「うん、そのつもり。この中だと……玉入れとか?」
「そうだね。走らないやつの方がいいだろうから、借り物競走とかリレーはなしとして……あ、日和、僕たちこれ出るの決まってるんだっけ? 部活対抗リレー……」
「そうそう、水泳部代表で。ていうか郁弥アンカー任されてたじゃん」
そうだっけ、と郁弥くんはどうでもよさそうに返した。日和くんがむくれてみせるものの郁弥くんのダメージはゼロ。そんな二人のやりとりが面白くてくすくす笑ってたら、教室の前のドアががらりと開いて担任が入ってくる。カリキュラム上仕方なく定められている学活の時間は受験生であることもあって大抵自習時間とされているが、今日は体育祭について話し合うからだろう。担任はわら半紙のプリントを持っていた。日直がそれを受け取って配り始めたところで、日和くんはようやく身体を反転させて前を向く。わたしと郁弥くんは日和くんの後ろの席かつ隣同士なので、ちょっと寂しそうな日和くんの背中を見て微笑んだ。
進行を委員長に丸投げした担任はパイプ椅子を引っ張り出すと教室の端に座って読書を始めてしまった。まったく、と思いながらあたしは手元に回ってきたプリントに視線を落とす。体育祭の大まかな進行表だ。百メートル走に騎馬戦、PTA参加競技、それから応援合戦まである。筆箱から蛍光ペンを出して、あまり動かなくても良さそうな競技にチェックを入れていく。あたしが出られそうなのは、玉入れと綱引きもまあ、大丈夫かな……あ、応援合戦は全員参加なのか。応援団は選ばれた人がやるそうだが。
「じゃあうちのクラスから応援団に男女三人ずつ参加する人を決めまーす! 推薦でも立候補でもいいですよー」
委員長が黒板に「応援団 男女三人ずつ」と書き込む。白いチョークは早く六人のメンバーを決めてしまいたいとばかりに揺らされていた。声を張り上げるのは……んー、ちょっと難しいかも。クラスのみんなは予めあたしの病気を知らされているので、あたしに白羽の矢を撃ち込んでくることはないが。
「はいはーい! 遠野くんがいいと思います!」
「えっ、僕?」
「遠野なら背も高いしいいんじゃね? 運動部だしさ」
不意に名前を呼ばれて、目の前の日和くんががたんと椅子を揺らす。貼り付けた笑顔の下、面倒だな〜と思っている彼の本心に気付いているのは恐らくあたしと郁弥くんだけだろう。日和くんは郁弥くんとあたしのことになると必死だが、自分のことには割と無頓着で流されやすい。断るのが苦手という性格も相まって、こういう場合日和くんはずるずる流されてしまう。さて、どうしたものか。助け舟を出してやることは容易だが。考えをまとめるついでにちらりと隣の郁弥くんを見れば、口元がちいさく笑っている。去年からだからまだそんなに長い付き合いではないはずなのだけれど、あたしはもうすっかり郁弥くんの言わんとしていることを理解してしまった。
「はーい、だったら郁弥くんも一緒がいいと思いまーす」
「ちゃん!? ちょっ……ちょっと郁弥、」
「……日和がやるならいいよ」
郁弥くんはこういう面倒な行事は苦手そうに見えて、案外そんなことはなかったりする。薄い唇に浮かぶ微笑みの本心は「自分がちょっと面倒なことになっても日和も巻き込めるなら上々」ってなもんだろう。日和くんとはまた違った方向に自己犠牲。あたしと郁弥くんのタッグに日和くんは黒縁メガネの奥で鶸色の瞳をぱちぱちと瞬かせて困っているが、そんな表情さえあたしたちの子供じみた悪戯心をくすぐるだけに過ぎないということを彼は理解していない。
「えっと……遠野くん、桐嶋くん。いいですか?」
「えっ、えー……郁弥、いいの?」
「日和がいいならいいって言ってるじゃん。ねえ?」
「うんうん、言ってる言ってるー」
あたしたちに助け舟を求めるのが間違いだ。日和くんが流してきた船はあたしと郁弥くんの連鎖攻撃で見事にぶくぶくと沈んでいく。にやりと笑ってみせるあたしたちに日和くんは負けを確信したようで、はあ、と大きく溜息を吐くと「解った、やるよ……」と答えた。
それから残りの男子一人と女子三人もつつがなく決定し、その後に参加種目決めを行なった。一人最低でも一種目、運動部の人は二種目以上。日和くんと郁弥くんは二人揃って応援団と部活対抗リレー、あたしは玉入れに決める。担任が参加リストを手に教室を去っていってすぐ、日和くんが椅子を反転させてあたしの机に腕を伸ばした。
「もーっ、郁弥、ちゃん! 狙ったでしょ!」
「はて?」
「なんのことだか」
しらばっくれるあたしたちの頭をひっ掴み、日和くんはぐりぐりとこめかみに拳を捻じ当てる。と言っても痛くはないんだけど。きゃーっと作ったような声を上げるあたしに倣い、郁弥くんも痛くないくせに痛いって、なんて零した。
「それより応援団って学ラン着るんでしょ? あたしいっぱい写真撮るね!」
「いやちゃんも一緒に応援しなきゃだから写真撮ってる暇ないデショ……」
「あちゃーっ……仕方ない、夏也さんにカメラを頼もう」
「それいいね」
「でしょ?」
「二人とも、夏也くんをなんだと思ってるの……はあ。まあ本気で嫌だったわけじゃないからいいけどさ。郁弥が応援団やってるとこは僕も見てみたいしね」
ようやく拳が頭から外される。日和くんはメガネをかちゃりと指で押し上げ、仕方ないなあと言いたさそうに笑った。
半月ほどの練習を終え、土曜日を迎えた。空は晴れ渡り絵に描いたような運動会日和を演出している。僕は赤いハチマキを結び直しながら、はあ、と深く溜息を吐いた。理由はもちろん、この後に控えている応援合戦のせいだ。郁弥とちゃんの策略にハマってしまい、僕と郁弥は応援団として応援合戦を盛り上げる側になってしまったからである。代々使われているという黒い長ランに長いハチマキ。それらを身につけた練習を毎日一時間、部活が始まる前に行なった。郁弥はなんだかんだで楽しんでいたようだったし、ちゃんは練習を見に来てはパシャパシャとスマートフォンで写真を撮っていたので、その点に関しては二人の笑顔が見られたし良かったとも思うけれど。
まあ本人たちが楽しそうなので僕がそこまで心配することではないんだろうけど、郁弥もちゃんも体調のことがある。呼吸障害を抱える二人はいつ体調を崩してもおかしくない。現にちゃんは直射日光を避けるためにクラスの待機場所から少し離れた救護テントに席が用意されているくらいだ(本人は「これくらいで倒れたりしないのに」と不満そうだったが)。
「遠野先輩!」
「ん!」
考えてる余裕はもうなかった。後ろから走ってくる後輩を視認して、僕はゆっくり走り出す。待機地点から少し走ったところで無事にバトンの受け渡しを終え、ぎゅっとバトンを握ると僕は加速する。部活対抗リレーで一位になった部活は活動予算に臨時ボーナスが出るらしく、エントリーした部活はどこもはりきっていた。僕たち三年生はそろそろ引退なのだが、最後にかっこつけてから引退するのも悪くないだろう。水泳部だが基礎体力は普通の運動部よりつけているつもりだし。スニーカーで地面を思い切り踏んで、トラックを一周する。さきまで僕がいたところに立っている郁弥は、ぷらぷらと手首を揺らしながら僕が走ってくるのを待っていた。待機場所はちょうど救護テントの前あたりなので、ちゃんが僕らを応援する声も聞こえる。
「郁弥!」
「任せて」
赤色のバトンは一ミリの無駄もなく郁弥の手に渡る。アンカーの郁弥は少し先を走っていた陸上部を抜かんとする勢いで走り出した。僕はゆっくりと歩いて呼吸を整えながら、その足でちゃんのところに向かう。お疲れ様、と言いながら彼女はペットボトルの水を僕に差し出してくれた。口は開いている――たぶんちゃんか郁弥のどちらか、いや、二人が飲み回しているのだろう。二人して僕に限りそういうことを気に留めないので、僕としてはちょっとハラハラしているのだが。郁弥はともかくちゃんは女の子なので、少しくらい危機感を抱いた方がいいと思う(以前遠回しに注意したら、日和くんだからだよ、なんて言われてしまった)(そういうところだぞ!)。
「郁弥くーん、頑張れー!」
「郁弥ー!!」
ペットボトルに蓋をして、僕はちゃんと一緒にトラックを駆け抜ける郁弥に声援を送る。最後の最後で郁弥は陸上部のアンカーを追い抜き、一着でゴールテープを切った。わあっ! と隣のちゃんが嬉しそうに笑う。僕も彼女と一緒に喜ぼうとして――郁弥がふらついているのを見、息を飲んだ。
「っ郁弥!」
ペットボトルをちゃんに放り投げてテントの下を出る。郁弥はグラウンドに両膝をついて、ぱくぱくと口を開けていた。――まずい。全力疾走したせいだろう。僕も走ったばかりで汗だくだから不快かもしれないが、言ってる場合じゃなかった。郁弥の身体を抱き起こして背中を摩る。呼吸をしていない、というより、できていない。
「郁弥、しっかりして! 口開けて、閉じないで……ゆっくり、」
「っは……ふ……」
「郁弥くんっ!」
状況を把握したらしいちゃんがテントの下から飛び出してくる。ちゃんは郁弥の手を握ると、焦点の合っていない瞳を真っ直ぐ見つめていた。郁弥くん、と焦ったような彼女の声。次第に郁弥は落ち着いて、ゆっくりではあるが呼吸ができるようになっていた。
「……ごめ、ん……ちょっと……頑張り過ぎた、かな……」
「郁弥っ……! 保健室行って休もう、立てる?」
「ん……」
「ごめんちゃん、玉入れ、保健室から見てるから」
「あたしのことは気にしないで、郁弥くんについててあげて。郁弥くん、これお水、持っていって」
「ありがと、……」
テントから持ってきたらしいペットボトルを郁弥に渡すと、ちゃんは僕が郁弥に肩を貸して去っていくのを見送ってくれた。走ってきた先生に説明する役を買って出てくれたことに感謝しつつ、彼女の競技が見られなかったのは純粋に後悔。郁弥と二人で応援するつもりだったのに。
ごめんね、と隣の郁弥が呟く。気にしなくていいよとは言ったけど、郁弥だって気にしてしまうだろう。何を言っても取り繕ったようになってしまうので、僕は無言のまま爪先で保健室のドアを開けた。保健医は救護テントの方に行っているから不在だ。郁弥をソファに座らせて、ちゃんに渡されたペットボトルの蓋を開けてやる。郁弥はそれを一息に飲み干すと、ようやく呼吸の調子が整ってきたようだった。
「郁弥、もうちゃんと息できる?」
「ん、平気。ごめんね日和、心配かけて」
「大丈夫。郁弥こそ、アンカーだったからいつもより気張っちゃったんだよね。ごめん、僕がアンカー引き受ければ良かった」
「日和は悪くないよ。それより、の……」
「ああ、うん。ええと、赤組の三年生だから……ん?」
窓をからからと開けてグラウンドを見遣る。運動会特有の軽快なメロディーが流れるグラウンドで、もう玉入れは始まっているようだった。しかし曲はそのまま、ぴたりと生徒たちの動きが止まっているところがある。手前の赤い玉入れカゴのところ……少し遠いが、目を凝らせば見知った顔が見えた。うちのクラスの女子だ。
何かあったのかな、と郁弥が呟く。誰かが転んでしまったとか、そんな単純なことだったらいいんだけど。
「郁弥、ちょっとここにいて。僕様子を見てくるから」
「うん」
今郁弥を一人にするのは得策ではないと思う。でもなんだか嫌な予感がして、僕は郁弥を残して保健室を出た。リノリウムの床を小走りで抜け、下駄箱の方まで来たところで、喧騒が耳朶を打つ。そこには、保健医に肩を支えられたちゃんの姿があった。思わず彼女の名前を呼んで走り寄る。ちゃんは僕に気付いていないのか、顔を上げることもできなかった。
「玉入れの途中で倒れちゃって、」
「っ……! 僕、保健室に運びます!」
「お願い、遠野くん」
目を離すべきじゃなかったんだ! 先生からちゃんの身体を剥がし、膝裏に手を入れて抱え上げる。廊下は走っちゃいけないなんて言ってる場合じゃなかった。ちゃんはぜえぜえと辛そうにハイテンポの呼吸を繰り返していて、体操着の胸元をぎゅっと抑えていた。さっきよりも勢いよく保健室のドアを開ける。全力疾走してきた僕を見て郁弥は目を丸くしたけど、すぐに僕の腕の中にいるちゃんを見るとベッドのカーテンを引き開けて布団を退けてくれた。スニーカーのままのちゃんをベッドに横向きで寝かせた僕は、彼女の背中をとんとんと軽く叩いてやる。ちゃんは苦しそうに瞳を瞑り、相変わらずペースの速い呼吸を続けていた。
郁弥は息ができなくなって、ちゃんは過呼吸。
二人して真逆の症状だ。足して割れたらいいのにねなんて二人は冗談半分で言うけれど、僕は本気でそうなってくれればいいと思っている。ゆっくりだが呼吸のテンポが戻ってきた郁弥は、寝転がるちゃんの足から運動靴を脱がしてやっていた。
「っ……!」
ちゃんの呼吸は止まらない。仕方ない、本当はあまり使いたくない手段なのだけど……僕はちゃんの身体を起こし、その頬に両手を添える。ちゃん、と名前を呼んだところで、ようやく彼女の瞳が薄っすらと開いて僕を見た。
「ひ、よりく、ん、」
僕の名前を呼ぶ合間にも呼吸が断続的に繋がれる。ごめんねと先に謝り、僕はメガネを外さないままちゃんに口付けた。ゆっくり息を吹き込んで、彼女の呼吸テンポを整えていく。少し口を離して酸素を補給してからもう一度。人工呼吸よりゆるやかなリズムでそれを続ければ、次第にちゃんの胸は上下しなくなり、ぷは、と彼女の方から息を打ち切った。
「ちゃん、深呼吸」
「……すぅ……っ、はぁ……」
「ん、落ち着いてきたね。郁弥ごめん、水まだ残ってる?」
「うん」
さっきちゃんから郁弥に渡された水が再びちゃんの手に戻る。蓋を外したペットボトルの中身はあと一口か二口分しかなかったが、彼女はそれに口を付けると中身を喉奥に流し込んだ。冷えた水でようやく意識もはっきりしてきたらしい。彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げ、ごめん、と呟いた。
「んーん、僕なら平気だから、あんまり気にしないで。僕の方こそちゃんから目を離しちゃってごめんね」
「でも……」
「いいんだよ、郁弥もちゃんも大事には至らなかったんだから。ほら郁弥も! まだ本調子じゃないんだから隣のベッド使って、すぐ横になる!」
眉を顰める郁弥はしぶしぶといった様子でちゃんの靴を床に置いてから自分もベッドに寝転がった。僕は二人の間に椅子を引っ張ってきて、右手を郁弥に、左手をちゃんに差し出す。ごめん、と何度目だか解らない謝罪が両サイドから飛んできて、思わず笑ってしまった。
「そう思うんだったら二人ともゆっくり休んで」
「あ、でも僕たち応援団……」
「そんなのどうだっていいよ。事情が事情だし、仕方ないでしょ。ちゃんもいいよね?」
「うん……」
申し訳なさそうな顔が僕を見る。僕は二人のそういう顔に弱いんだってこと、二人とも知ってるはずなのにね。まったく、とちょっと困った素振りを見せてから、僕は両手で二人の頭を撫でた。
「おやすみ郁弥、ちゃん」
口を引き結んでいた二人は僕に押し負けて、おやすみ、と一緒に呟いた。閉じられた瞳を見て、同じテンポで呼吸ができている二人を見て、心底ホッとする。ねえ郁弥、ちゃん。僕は二人のこと、どうしたって心配しちゃうんだ。それくらい、許してね。
2018.10.31 柿村こけら
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