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01:探偵ノーマン〜最初の事件〜

 オペラハウスの看板テナーといえば、誰だって名前を知っている。朝日奈響也。遠くまで響く淑やかな声は、一度聴いたら忘れられない。かく言う私も、この劇場が新規スタッフ募集を始めたときに一も二もなく飛び込んだのは響也さんの歌をもっと聴いていたいと思ったからだ。日常に組み込むことができたら、と。そして私の作った衣装で、彼の舞台を彩ることができたら、と。
「なんて、思ってたんだけどなー……」
 ぽたり、視線を下に落とす。ソファに腰かけた私の膝の上、練習着のままくぅくぅと眠る響也さんの姿。かれこれ一時間ほどこのままなので、そろそろ足が痛くなってきた。部屋には鍵がかかっているから他のキャストに見られることはないんだけど、それでも流石にちょっとハラハラしてしまう。何せ響也さんはこのオペラハウスの看板テナー。つまり、女性ファンも多い。別に私と響也さんは「そういう関係」ではないのだが、疑われるというのは彼の経歴に傷を付けることになる。それは避けたい。だって私は、これからも彼の歌声を、演技を、見続けていたいから。
 響也さんにぶつからないよう、衣装の直しを進める。ちくちくと針が縫い合わせていくのは衣装のほつれだ。毎日公演を続けている以上、こうして衣装が擦り切れていくのは仕方のないこと。子供みたいな寝顔を見せる響也さんは、休演日だというのに練習に勤しんでいる。私を自分の控え室に呼びつけたと思ったら、「衣装直して」と言ってこうして寝てしまった。わがままなところもあるが、もうすっかり慣れてしまった。最初は舞台の上に立つ「朝日奈響也」とは全然違うなと思ったけれど、あれは演技をしている姿だ。違って当然。伊織くんだって舞台の上では違う人間のように振舞っているし。
 真っ赤なコートは、響也さんが今やっている役の象徴的なもの。裾のほつれをちくちく縫い上げていく。最初に響也さんが私の作った衣装を褒めてくれたときのことは、今でも忘れられない。キラキラした笑顔で、「これ、お前が縫ったのか!」と告げてくれたときの彼を忘れられないから、私はこうして響也さんのことを甘やかしてしまうんだと思う。天才的な演技の裏には、居残りをしてまで練習している姿があると知ったとき。響也さんが自らの育ちにコンプレックスを抱いていると知ったとき。たまたま彼の隠してきた「それ」を知ってしまったわたしに、彼が詰め寄ってきたとき。響也さんが何をやっても(流石に犯罪はちょっと庇いきれないが)、彼の築いてきた演技が崩れることなんてない。
 コートの直しを終えて、微睡む響也さんの顔にそっと手を添える。年齢の割に綺麗な肌に、さらりとかかるミルクティー色の髪。口に入りそうだった毛先を払っていたら、んん、と彼がちいさく声を零した。
……?」
「あ、すみません響也さん。起こしちゃいましたね」
「んー……大丈夫、」
 のそのそと起き上がった響也さんは、両腕を伸ばすと私にもたれかかろうとする。針を針山に戻してから響也さんのハグを受け止めれば、寝起きのせいか温かい身体が私に温もりを譲ってくれた。背中をとんとんと叩くと小さな声が上がる。こういう子供っぽいところも、愛らしいなあ、と思う。私と彼は恋仲ではない。どちらかというと、お姉さんと弟というイメージだ。
 先日起きた事件の折、響也さんはひどく疲弊した。けれど自分の罪……いや、罪と言うには軽すぎることではあったけど、とにかくそれをきちんと受け止めて、今後に生かしていくと宣言してくれた。まだ彼の実情を知っているスタッフは、その場に居合わせた私、伊織くん、昴くん、陽向さん、カイトさんの五人だけだけれど――落ち着き次第、少しずつ真実を話すつもりでいる。あのとき響也さんの秘密を知っていた私はつい彼を庇ってしまったのだけれど、それもあってこうして懐かれているのだからなんだかんだ言ってあの事件は起きて良かったものだったのかもしれない。
 そういえば仁さんとお弟子さん、今頃何してるんだろうか。今日もどこかで難事件を解決していたりするんだろうか。この劇場を(結果的に)救ったみたいに、またどこかで……。

「あ、はい」
「……他のこと考えてた?」
「……すみません」
 この人、こういうところは鋭いんだよなあ。顔は見えないけどむくれているに違いない。私は響也さんの背中に伸ばしていた手をさすさすと動かして、どうにか機嫌を直してもらおうと画策する。むー、と不機嫌そうな声を上げながら彼は私から離れ、ソファの肘掛けに置いておいたコートを手にして、羽織った。ほつれをチェックして満足そうに微笑む。下は練習着だけれど、こうしてコート一枚羽織っただけで看板テナーとしての姿を見せるのだから、不思議な人だ。普段はワガママで子供っぽいのに。自分に向けられる視線を気にして生きてきた彼は、ちょっとした動作で「完璧」に切り替えることが得意だ。
「うん、ばっちり。ありがとう
「どういたしまして、響也さん」
 思えば、「ありがとう」さえロクに言えない人だったもんな……そういう意味でも、仁さんによる指摘は彼に大きな影響を与えたんだろう。流石に百八十度人格が変わったということはないけれど。
 そんなことを考えていたら、コンコンコンコン、とノックの音が響いた。私はソファから立ち上がり、さも「響也さんの衣装をチェックしに来ました」みたいな顔をする。……や、別にやましいことをしていたわけではありませんが。一応ね、体裁を取り繕う必要くらいはありそうなので。
 失礼しますと言いながら入ってきたのは伊織くんだ。私が響也さんからコートを預かっているのを見ると「大丈夫でしたか?」と伺ってくる。響也さんはこくりと頷くと、何かの資料を伊織くんから受け取った。ちらりと見えた内容は、響也さんが読むには難しそうなもの。恐らくスポンサーとの打ち合わせか何かに必要なものだろう。陽向さんが近々そういった会合があるとボヤいていたのは記憶に新しい。
「こちら、アレックスカンパニーとの会合で使う資料なので目を通しておいてくださいと副支配人が」
「……っ」
「あ、もちろんその……響也さんのことは、解っています。ですが僕も副支配人もカイトさんも、別件で時間が取れず……」
 辞書を引くことさえ、響也さんには難しい。何せこの歳まで文字が読めなかったのだから。彼が日々取り組んでいるテキストは、彼の年齢より二十以上は下の子供が行うもの。カリキュラムに触れてこなかった弊害。……仕方のない、ことではあるけれど。
「伊織くん、この資料って私が見ても平気なやつですか?」
「え? あ……はい。さんでしたら大丈夫ですよ。どうせ衣装班からも一人会議に連れていく予定だと副支配人は仰ってましたし」
「じゃあこれ、私が響也さんと読むよ。それなら問題ないでしょう?」
「いいんですか? 衣装の方も忙しいんじゃ……」
「大丈夫、ほつれ直しはもう終わってるから。響也さんもそれでいいですか?」
「ああ」
 お願いしますと一礼して、伊織くんは部屋を去っていく。隣の響也さんの顔を見れば、不安そうに私を見ていた。勉強の甲斐あって簡単な児童書くらいなら読むことができるようになった響也さんだが、会議の事前資料となると難しい。どうしよう、と言いたさそうな彼を椅子へと連れていき、隣に私も腰かける。机の上には昨日まで取り組んでいたのであろうテキスト類。子供向けの辞書にはいくつも付箋が貼られている。カイトさんの尽力もあって台本は覚えられたのだから、決して単語が解らないということではない。まあ喋るのはできるわけだし。
「大丈夫です、響也さんならできますよ」
……」
「まずは私が中身読んで、響也さんが覚えておく必要がありそうなところをハイライトしますから。大丈夫。いつもしてるお勉強と一緒ですよ」
「……うん」
 しおらしい響也さんは、ちょっと可愛い。情けない弟みたいで、つい頭を撫でたくなってしまう。一応というか普通に彼は私の上司にあたる人なのでそんなことはしないが。渡された資料をさーっと読んで、響也さんに必要そうなところに線を引く。羽ペンの先から零れた赤が多いと彼は混乱してしまうから、必要最小限に絞って。
 三十分ほどで資料を読み終え、響也さん、と声をかける。ノートとペンを手にした彼は、不安そうに私を見た。こういうところはやっぱりまだ子供っぽい。大丈夫ですよ、もう一度告げる。広げたプリントに並ぶ文字は、彼にとって恐ろしいものなんだろう。
「終わったら紅茶を用意しますね。頑張れますか?」
「! なら……頑張る。の淹れてくれる紅茶、好きだから」
「ふふ、嬉しいです。じゃあ早速、この提案から――……」
 資料を覗き込むヘーゼルの瞳は真剣そのものだ。微力だってことくらい、解っているけれど。私が少しでも彼の力になれるのならそれでいい。かりかり、と羽ペンがノートに文字を書き付ける音が小さく響く。響也さん。私、やっぱりあなたの隣にいられて、良かった。



2018.07.24 柿村こけら


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