恋は咎であろうとも
06:過去
花のように可憐な人だと、少年は思った。
ゆくゆくはご主人様となる少女はモリスと同い年で、引っ込み思案なモリスに比べて自由奔放で明るい子供だった。屋敷の誰からも愛されるやんちゃなお嬢様は、よく少年を遊びに連れ出した。あの頃、二人の間に身分差なんてものはないようにさえ思えた。けれど、それは見て見ぬ振りをしていただけ。繋いだ手の間には、間違いなく高い壁があったというのに。
少年は少女に仕える執事で。
少女は少年の仕える主人だった。
自分を外へ連れ出してくれる少女に恋をするまで、さほど時間はかからなかった。髪を結う赤いリボンがひらひらと揺れるのを追いかけて、モリスは胸がときめいたのを理解した。ただお嬢様だから、仕える相手だから、こんな風に一緒にいたいと思っているわけではない。願わくば彼女が、ただ一人、自分だけを見てくれればと、そんなエゴイスティックな感情が芽生えている。ブランコに座る少女が早く押してくれとせがむ相手は自分だけでいい。髪を結ってとリボンを渡す相手は自分だけでいい。内緒でタルトを分け合う相手も、自分だけでいい。
けれど少女は、残酷なほどに優しかった。愛され過ぎた故に、誰か一人に自身の愛を注ぐということができなかった。モリスは知っている。彼女に自覚がないことを。執事たちを苦しめているのは、他ならない彼女であるということを。
……けれど。
そうだとしても、モリスは残酷な道を選んだ。抱いた独占欲は消えるわけもない。だったらこの気持ちを腹の底に押し込んで、素知らぬ顔で少女の傍にいられる方がマシだったから。
帰国の報せを受けてすぐ、モリスは彼女のために新しいドレスを見繕った。店を何軒も巡り、少女だった彼女を彩るのに相応しいドレスを探した。彼女を包む全てが、自分の愛でつくられることを願いながら。
屋敷へ帰ってきたお嬢様は、モリスの予想通り立派な女性に成長していた。当然、執事たちは皆一様に彼女を欲しがった。独占欲は渦を巻く。モリスも彼らと同じであったが、決して気持ちを露呈することはしなかった。したく、なかった。彼が彼女に抱く気持ちの最下層にあるのは慕情だ。幼い頃、自らの手を引いてくれた主に対する最大の敬意にして愛情。仕えるべき相手として愛すことは許されても、恋をすることは許されない。薔薇垣に囲まれたこの屋敷は、彼女のための館だ。彼女に不利益をもたらす感情は必要ない。古くなって擦り切れた手袋と一緒に捨ててしまうべきシロモノだ。
「……俺は、」
かつて少女に恋をした少年だった男は呟く。暗い部屋の中、ベッドの上には買い込んだドレスローブが散らばっていた。その中の一つを引き寄せて、ぎゅ、と抱き締める。シフォンの生地は柔らかく、彼女の肌を痛めることもないだろう。
「お嬢様の傍を、離れることなど……できない」
――高貴な薔薇の香りが漂うテラスで、私は優雅な一時を過ごしていた。
傍らにはモリスとシリウス。アフタヌーンティーのセットは今日もヘンリーのお手製だ。二人もどうかと言ったのに、彼らは席に座っただけで食事には一切手を付けない。咲き乱れた薔薇が甘い匂いでテラスを満たす中、静寂が私たちの間に流れている。
私のティーカップが空になってすぐ、モリスがティーポットに手を伸ばす。今日の紅茶はハーブティー。シリウスが庭園で育てたハーブを使って作っているというそれは、さっぱりした味で夏に飲むにはぴったりだった。
「お嬢様、紅茶のお代わりでございます……あっ」
私の前からティーカップを取ろうとした瞬間、モリスの指先が私の手に触れる。モリスははにかむと、手を引っ込めながら小さく頭を下げた。
「大変失礼致しました」
「大丈夫よ。それよりモリス、火傷はしていない?」
「はい。ポットもそんなに熱くはありませんでしたから。……お嬢様は本当に変わりませんね」
「え?」
改めて紅茶を注ぎながら、モリスは話を続ける。彼の瞳に私は映っておらず、どこか遠くを見つめているようだった。薔薇垣のその向こう。空に浮かぶ雲は、思ったよりも早く流れ去っていってしまう。
「お嬢様は幼い頃から、少々やんちゃでいらっしゃいましたが……私はそんなお嬢様を止められずに一緒に外で遊んでしまい、よく旦那様や奥様に注意を受けておりました。そんな私を見て、お嬢様は今のようによくいたずらっぽく笑っておいででしたね」
「……そうね。あの頃の私は、毎日を楽しく過ごすことしか考えていなかった。モリスたちと駆け回るのが、一番の幸せだと思っていた」
歳が近かったこともあって、外で遊ぶときはいつもモリスを引っ張り出していた。彼には仕事があったのに、私はそれを無視して、自分の都合で彼を振り回した。今思うととんだ悪い子だし、モリスには申し訳ないことをしたと思う。執事とはただの使用人ではない。時には主を諌めることも仕事の内だ。現に遊んでばかりいた頃、オリバーは私を捕まえるのに必死だった。そしてオリバーに捕まった後は決まって長々と叱られたものだと、今でもハッキリ思い出せる。
「ですが、お嬢様の笑顔を近くで見守っている間に、私はいつしかお嬢様のことを……」
思い出を懐かしんでいた顔はいつの間にか消え、モリスの顔が真顔になっていた。視線は空から私に戻ってきている。深い青緑色が、探るように私を見つめていた。けれど私と視線が絡み合って、はっと我に返る。
「……っ、いえ、何でもありません」
少しだけ頬が赤い。見て見ぬ振りをして、私は紅茶にティーカップに口付けた。淹れたての温かな紅茶が喉を潤していく。モリスはうっとりとした瞳で、私を見つめている。
「先程の笑顔は、あの頃と少しも変わりません。可愛らしくて、そして、とっても楽しそうで……」
「あなたを連れ回していた頃と同じ笑顔だった?」
「……はい。お嬢様のお陰で、私の世界は広がりました。きっと、あの頃からずっと。貴女の笑顔を励みに、私はいつも働かせて頂いているのかもしれませんね……」
モリスはそう言うと、自らも紅茶を嚥下した。ごくりと揺れる喉は、あの頃と違って太くなっている。彼もまた、成長してしまった。時間は流れる。例え薔薇垣が館を取り囲もうとも、時を止めることは、誰にもできやしない。
「……」
優しい表情で私を見つめるモリスの奥。彼を鋭く射るように、シリウスは不穏な視線を送っていた。薔薇の棘のように、気付いてしまったら怪我をしそうなくらい、その視線は鋭い。私の書斎や寝室に飾られた薔薇は棘が捥がれているから触れても怪我をすることはないけれど、彼の視線は違う。そこに込められているのは、愛情なんて生温いものじゃない。しかし、モリスはそれに気付くことなく続けた。
「お嬢様、私は生涯貴女にお仕えすることを誓います。例え何があってもお守りしてみせます」
「ありがとう。モリスは……優しいわね。でも……」
ちらり。私がシリウスの方を見遣れば、彼は最初からモリスのことなんて見ていなかったような振りをした。相変わらずモリスは同僚のつめたい瞳に気付くことなく、正反対の温かい視線を私にくれる。
「私は心配だわ。いつかモリスが、傷付かないかと」
「どうして、私の身などを案じてくださるのですか?」
「モリスがそんなことを言うから。何があっても、なんて……冗談でも言わないで。あなたが私を大切にしてくれるように、私にとってもモリスは大切な存在。掛け替えのない人なのだから」
「失礼致しました、お嬢様。ですが、どうかご安心を。私は一生お嬢様にお仕えする身。決して、命を落としたりなど致しません。……しかし、先ほどの言葉は私の本心です」
モリスはメガネを外すと、机の上に置いた。レンズ越しではなく直接見つめられたら、彼の熱が私の頬に移ってきたようで。微笑む彼の本質は、あの頃から変わっていない。ブランコに乗った私の背中を押してくれた、あの頃から。伸ばされた指が、私の髪に結われたリボンを摘む。少し引っ張っただけでサテンリボンはするりと髪を滑り落ち、モリスの指に留められた。
「お嬢様の変わらない笑顔を見て、たった今、どうしてもお伝えしたくなったのです。……御髪を直させてください。あの頃と同じように」
遊び疲れて寝転がった私の髪は、いつもぐしゃぐしゃになっていた。隣で私を見守っていた彼は寝起きの髪を梳いてくれて、リボンを綺麗に結ぶところまできちんとやってくれたのだ。モリスは席を立ち、私の髪に指を通していく。髪と一緒にリボンを編み込んで、あっと言う間に乱れた髪を整えてくれた。
「ありがとう、モリス。いつも感謝してるわ」
「そんな、お礼など必要ございません。ただ私がそうしたいだけのことですから。この先もずっと貴女のお傍に置いて頂きたい。貴女の笑顔を見ていたい……」
モリスの指が、髪の上を滑る。いつの間にか外された手袋は、そっと私の頬を撫でた。
「……そう。できることなら、誰よりも一番近くで」
「モリス……」
薔薇の香る空間が、いやに甘ったるい。その空気を叩き割るように、シリウスがカップを乱雑にソーサーへと置いた。カチャン、と食器が音を立てる。その音で我に返ったらしいモリスは、手袋を嵌め直すと席に着いた。
「……いえ、今のは忘れてください。出過ぎた真似を致しました」
はにかんだ笑顔は、やっぱりあの頃と一緒。
「今日の私は少々、言葉が過ぎるようです……」
「そんなこと、ないわよ」
少し困った顔を見せるモリスが愛おしくて、私はつい、彼を連れ出してしまうのだろう。テラスで座っているのなんて、性に合わない。今すぐにでも彼の手を取って、あの頃と同じようにブランコを漕げれば良かったのに。
「さっきも言ったでしょう。私にとって、モリスは掛け替えのない大切な人ですって」
「お嬢様も私のことを必要としてくださるだなんて、これほど嬉しいことはありません。身に余る光栄とは、このことを言うのですね」
そう告げて、モリスは照れ隠しのように僅かに私から視線を逸らす。テーブルの上に置かれた手の上に、私はそっと手を重ねた。繋いだ手は、もう引くことはできないんだろうか。
「これからもよろしくね、モリス」
「……はい。これからも、今まで以上によろしくお願い致します」
穏やかな雰囲気の中、私たちは微笑み合う。背後に咲き誇る情熱的な薔薇が、どれだけ私たちを煽ろうとも。そうしてしばらくしたところで、彼の真っ直ぐな眼差しが、私をとらえる。
「――あなたの笑顔は必ずや、この俺がお守りしましょう」
くだらない、くだらない、くだらない、くだらない!
あの女は聖女なんかじゃない。庇護の対象などではない。ぎり、と奥歯を噛み締めながら、執事はそんなことを考えた。目の前で行われる茶番に腹が立つ。叶うならテーブルを引っくり返して、このくだらない空間を滅茶苦茶にしてやりたかった。
シリウスにとって主とは、自分のことだけを頼ってくれる存在だった。けれど目の前のこの女は、シリウスの望むそれとはまるで違う。七人の執事たち全員にいい顔をして人の心を奪い、自己満足に耽っているだけの悪女。魔女モルガンだって、お嬢様の前では裸足で逃げ出すことだろう。その証拠に、彼女はモリスと話をしながら冷たい視線をシリウスに投げて寄越した。あなたにはモリスのように素直になれはしないでしょうとでも言わんばかりに。
煽られている――そう思って、シリウスは自棄になってカップをソーサーに叩き付けた。けれどそれさえ彼女にとっては想定内だったようで、侮蔑の視線をシリウスに贈って、すぐにモリスの手を取る。そんな行動全てが、憎らしくて仕方ない。
勿論彼女に言わせれば「そんなつもりはなかった」といったところだろう。しかしシリウスは盲目的なほどに主のことだけを見ており、視界から主以外の人間は排除してしまいたいとさえ思っていた。モリスも、他の執事たちも。邪魔だ。この薔薇に囲まれた館にいるのは、自分とお嬢様だけで良かった。それなのに、現実はシリウスの望みを叶えてくれやしない。
――お嬢様を思い通りにしたかった。
シリウスが望むのは、そんな歪んだ愛情。
アフタヌーンティーを終えると、彼女はモリスに連れられて屋敷へと戻っていった。残されたシリウスは、トレイの上に食器を積んでいく。去る間際に彼女が見せたのは、相変わらずのつめたい視線。使い古された靴を眺めるような目だと、思った。
「お嬢様……ああ、ああああっ……!」
ティーセットを厨房に叩き込む。割れたって構わない、そう思った。家令のオリバーに叱られたところで知ったことか。シリウスにとって大切な物は館ではなく、主だ。三人分の食器を洗い終え、彼は衣装室の奥のドアを開く。ドレスの管理を担当しているのはモリスだが、靴だけは違った。ガーデンを踏むこともある靴に限り、モリスではなくシリウスが管理をすることになっている。山のように並んだ靴の中、ドアに鍵をかけたシリウスは宝物のようにしまわれた箱を取り出した。もうすっかりボロボロになった箱の中に鎮座しているのは、ぴかぴかに磨き上げられた子供靴。靴底には砂一つ残っておらず、新品と言われたら信じてしまうことだろう。赤いリボンの留め具が目立つエナメルのその靴は、何を隠そうシリウスが少女に初めて贈った靴だった。やんちゃで、お転婆で。毎日のようにガーデンを駆け回る彼女にはこの靴がぴったりだろうと、シリウスが選んだのだ。彼の予想通りその靴を少女はいたく気に入り、毎日のように足を入れた。そして、シリウスはその靴を毎日のように磨き続けた。少女の小さな足を包む、赤いそれを。
「お嬢様……俺だけの、嗚呼……!」
シリウスの赤い舌が、エナメルの上を這う。苦みなんて気に留めるわけもない。彼は自らの存在を主に捧げるものだと思っている。指先も、髪も、瞳も、舌さえも。全て主のために存在する。少女の履いた赤い靴に落としたキスは、ひどく重い。この靴の持ち主は、もう自分がこんな靴を履いていたことなんて忘れているだろう。それが、憎らしかった。
「俺は、こんなにも……貴女を愛している!」
シリウスにとって、その靴は何よりも大切な宝物だ。初めて選んだ彼女の靴。少女が箱を開けるまで、喜んでもらえるだろうかと不安で仕方がなかった。文字通り蓋を開けてみれば、彼女は毎日のようにその靴を履くくらい、シリウスの選んだそれを気に入ってくれたのだが。
それでも、子供靴には終わりがくる。
シリウスがどれだけメンテナンスをしようとも、少女の足は彼女の成長に合わせて大きくなる。彼がどれだけ憎悪を肥大させようとも、時間を止めることはできないのだから。いっそ時の流れをも止められれば、シリウスは主を憎むことなどなかったのかもしれないが。
現実は、非情だ。
赤い靴に少女の足が触れることはなくなり、彼女はこの屋敷を発ってしまった。シリウスだけが時の中に取り残されている。
「貴女は、永遠に俺だけの物となればいい……」
再び磨いた子供靴を、シリウスは丁寧に箱へとしまう。トパーズの双眸には、憎悪の炎が激しく燃えていた。
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