恋は咎であろうとも

07:本性

「おやすみなさい、お嬢様」
「ええ、おやすみ、リース」
 向けられた笑顔に胸を撫で下ろす。おやすみのキスを終えて、私はリースに手を振ると部屋のドアに鍵をかけた。
 誰もが緩やかに狂い始めている。リースだって、荒々しい本性があの笑顔の裏にあるくらいだ。そしてその原因は言わずもがな、私。私が帰国などしなければ、彼らはこんな風にはならなかったのだろうかと考えてみるけれど、それは無駄なことだろう。起きてしまったことは変えられない。時間を止めることも、巻き戻すこともできない。時とはただ流れていくだけのもので、私たちはそれに身を任せるだけだ。
 考えても仕方ない。私はベッドの上に投げておいたガウンに手を伸ばし、袖を通そうとした。
「お嬢様、こんな夜遅くにどこへお出かけになるのですか?」
 けれどその声は遮られる。不意にカチャリと音がしたと思ったら、私の後ろにはフィリップが立っていた。ワインレッドのベストを身に着けた彼は、眉間に皺を寄せて私を見る。久し振りに八人揃って迎えた夕食のときには、こんな顔をしてはいなかったのに。紳士的な姿は彼から消え失せている。
「ちょっと夜風に当たろうと思ったのよ」
「いけません。この私が許しませんよ」
 フィリップは後ろ手で鍵をかちゃりと閉める。確かに閉じてあったはずのサムターンが再び閉じられ、部屋は完全な密室となった。
「お願い、フィリップ。行かなくちゃいけないの」
 私はフィリップに縋り、ドアの前から退いてもらおうとする。けれど彼はそこから動いてはくれない。ぎり……と、彼の手が力強く私を拘束する。手首を掴み上げられ、痛さに思わず眉を顰めた。
「……ダメだ、この手は絶対に離さない」
 フィリップはメガネを外すと、それをくるくると指に引っ掛けて回してみせ、それから私のベッドへと投げ捨てた。不機嫌そうな顔は消えて、切なさの宿る瞳が私を見つめる。そのままずるずると私を引き摺った彼は、今まで心の奥底にしまい込んでいた心情を吐露し始めた。
「どうせ、あの男のところに行くんでしょう? どうしてです? 俺がいれば、それでいいでしょう。俺はずっと、貴女の傍に付いていますから。それだけじゃ、満足できませんか……?」
「フィリップ、」
「いつもお嬢様は、屋敷中の執事たちの心を魅了してしまう。昔からそうだった。ですから、気が気でないのです。お嬢様が留学されている間だって、ずっと貴女のことを思っていた。留学先でも、多くの男を魅了したに違いないと……」
 ヘーゼルの瞳が見開かれ、私をベッドに投げ飛ばす。さっき彼が捨てたメガネと同じように。メガネはちょうど木の部分に当たってしまったようで、レンズに薄らとヒビが入っている。……ああ、彼も、狂ってしまった。
 どうしてだろう。私はただ、みんなと静かに暮らすことができたらそれだけで十分なのに。
「お嬢様……貴女のその翼を剥いでもいいですか? 貴女のその美しい瞳には……」
 懇願するように告げるフィリップは、手に込めた力を弱めてくれない。折れてしまうのではないかと思うほどに強く掴まれて、あまりの痛みに声が漏れた。
「痛っ……」
「あ、っ……」
 フィリップは慌てて手を離す。シーツの上に乱れた髪と、赤く腫れてしまった手首。それを見てようやく、彼は正気を取り戻したようだった。
「フィリップ」
 痛む手を何とか動かして、彼の頬を包み込む。かち合った視線に、殺意はない。ヘーゼルをじっと見つめて、私はもう一度彼の名前を呼んだ。
「私は、この屋敷から飛んでいったりしないわ」
「お嬢様……」
「フィリップの傍から離れたりしない。でも……先約があるの。とっても大切な。私は……誰も、手放したくない」
 ワガママなお嬢様でごめんなさい。そう言えば、フィリップは悲しそうに眉尻を下げた。言っても聞かないということを、彼もまた理解しているのだろう。
「必ず、あなたの元に戻ってくるわ。だからフィリップ、鍵を頂戴」
「……酷いお人だ」
 フィリップはそう呟いて、執事服のポケットからこの部屋の鍵を取り出す。マスターキーを持っているのはオリバーだけだから、これで彼は夜の間にここに入ることはできない。
「ありがとう」
 赤いリボンの結ばれた鍵を、私はドレスのポケットに滑り込ませた。焦燥した様子のフィリップの頬にキスを落とし、部屋を出る。向かう先は――ガーデン。
 薔薇垣の奥のテラス。シリウスは恭しく頭を下げ、私を待っていた。
「お待ちしておりました、お嬢様」
「夜のガーデンも素敵ね。シリウスの手入れが行き届いているからだわ」
「ありがとうございます。さあ、どうぞ」
 椅子を引かれて、腰かける。用意されたティーカップに、シリウスがゆっくりと紅茶を注いだ。薔薇の匂いはガーデンに咲き乱れる花だけではなく、カップからも漂ってくる。どうぞ、と微笑むシリウスの瞳に、光はなかった。
「これは……薔薇の紅茶なの?」
「はい。ガーデンの薔薇を使ってブレンドしたものです。お嬢様なら、きっと気に入ってくださると思って……」
「……ありがとう」
 薔薇の蔓のように濃い緑のシャツの上、ベルベットのリボンタイがシリウスの首を飾っている。まるで薔薇のような色合いだと思いながら、私は紅茶に口を付けた。甘い匂いに――脳みそが、揺さぶられる。
「しり、うす……?」
「ああ、お嬢様。いけませんよ、そんな風に眠ってしまっては」
「な、に……」
「私は以前も申し上げたじゃありませんか。外で眠るのは、危険だと」
 急激な眠気が私の意識を奪っていく。シリウスの歪んだ笑顔さえ、視界から消えてしまった。……こんなことならフィリップの注意、ちゃんと聞いておいた方が良かったかしら。



「……目を覚まされましたか、お嬢様?」
 見慣れたはずの執事の姿。なのに、いつもと何かが違う。浮かべる笑みには、不穏な気配が漂っていた。視線だけを動かして周りを見遣る。白と赤の薔薇が咲き乱れるテラスは、ガーデンの一角に存在する。ここもまた、シリウスが手を加えた薔薇たちがあるエリアだ。シリウス、と。掠れた声で彼の名を呼べば、従順な執事は、笑みを深めて囁く。
「頭が痛く、体も痺れて……手足の自由がきかないのでしょう? 無理はなさらない方が、御身のためですよ。お嬢様。私が紅茶に痺れ薬を混ぜたとも知らず、美味しそうに召し上がっていましたね」
「……やっぱり」
 蜂蜜を入れたって、紅茶があそこまで甘ったるくなることはないだろう。一口目で、おかしいことは解っていた。それでも私は、彼から逃げたくなかった。もし彼が狂ってしまったのだとしたら、それに付き合って狂ってしまおうと……そう、思っていた。
「お味は、いかがでしたか?」
「美味しかったわ。シリウスの淹れてくれた紅茶ですもの」
 執事は微笑む。どこまでも楽しそうに。私の不自由が愛おしくて仕方ないと語るように。
「ねえ、シリウス。どうしてこんなことを?」
 横たわったまま、私はシリウスの顔を見つめた。光の消えた琥珀の瞳はうっとりと私を見返してくれる。彼は髪を掻き上げると、唇を三日月のように歪めた。耳飾りが月光を浴びて光る。凍った笑みの下、彼は一体何を考えているんだろうか。
「それが解らないからこそ、こんな目に遭うのですよ、お嬢様」
 彼の心の奥底を照らし出すように、月光が射し込む。薄青い明かりに照らされた執事の顔は――……
「貴女はいつもそうやって、俺の心を弄ぶ!」
――どうしようもない悲しみに、満ちていた。
 見開かれた瞳から視線を逸らすことができない。せめて腕が動いたら、彼に触れることができるのに。それさえ許されない私は、激昂する彼を見つめ、唇を引き結ぶ。
「あんなにも大切に想い、尽くし、この身を削ってきたというのに、貴女は俺から離れた。昔はいつも俺に微笑みかけ、その手で、その声で、優しく労ってくださったのに」
 そこまで言うと、シリウスは私の足から靴を外した。ピンク色のハイヒールは、シリウスのお陰で美しいまま保たれている。彼は歪んだ瞳を私に向け、そのままヒールの先端にキスを落とした。
「今は使い古された靴を眺めるような目で俺を見て、ぞんざいにあしらうばかり」
「……」
「それどころか、そんな俺の目の前で他の者を褒め、慈しみ、俺を蔑ろにする!」
 モリスに向けられた氷の目を思い出して、私は奥歯を噛み締めた。違う。私は、誰か一人を特別になんて、思いたくない。シリウス、と彼の名前を呼んでも、執事は私の言葉を聞いてくれやしなかった。
「どうしてですか、お嬢様。身も心も……そう! 俺は魂すらも、貴女に捧げたのに!」
「っ、」
「貴女が俺の物になるために、これ以上、何が必要なのですか……!」
 その表情は、燃え盛る憎悪で歪んでいる。シリウスはハイヒールを庭に投げ捨てると、するり、私の足を優しく撫でた。手つきはどこまでも優しく、憎しみなんて感じられない。切り揃えられた足の爪に触れた後、彼は私の体を起こす。ベンチに座る形となった私の足元に跪いたその姿は、どうしてだろう、小さく見えた。
「お嬢様……」
 シリウスの手が、足をすっと持ち上げる。まるでシンデレラにガラスの靴を宛てがう王子様のように。力が入らず無防備な足を掬う指先も、その甲へ捧げる服従のキスも。全てが、愛で満ちていた。
「……今は、こうして俺の傍に戻ってきているけれど、またいずれ、貴女は他の誰かの物になってしまう。貴女の目が他の誰かを映すと想像するだけでも、俺はおかしくなりそうだ」
「……」
「……そんなこと、許さない。絶対に許さない」
 ちゅ、と軽いリップ音が私の爪先に落とされる。彼は執事として、自らの体を主に捧げた。服従のキスを何度も重ねる彼は夜闇に怯えるこどものよう。手を伸ばすことができたなら、彼の銀色の髪を梳いていただろう。
「貴女を誰より想い、尽くしているのは……私。執事シリウス。貴女は私だけの物でなくてはならないのですよ、お嬢様。それが、貴女の義務なのです」
 足に再び、執事の唇が触れる。その温もりから逃れようと身をよじる私に、シリウスは微笑んだ。
「……お嫌ですか? 本当に?」
 答えはたぶん、聞いていないんだろう。シリウスの瞳が私を見上げると、その顔には恍惚の表情が浮かんでいた。
「違いますよね?」
「シリウス、」
「貴女は……本当は私の物になりたい。ただ素直になれないだけだ。だから、私を弄び……私に貴女を憎悪させ、気を引こうとしていらっしゃるのですよね?」
 違う。違うのよ、シリウス。
 私は、そんなことを望んでなどいないわ――そう言っても、彼の耳には届かない。するりと足首を撫でる手は、止まらない。
「……でも、もういいんですよ、お嬢様。私の前では、皆に優しい御令嬢を演じなくてもいいのです。心全てを曝け出して。私だけの……いや、」
 何度目だか解らないキスが落とされる。そんなことをしなくたって、私はあなたの主でいようと思っているのに。どうして、伝わってくれないんだろう。どこで、間違えたんだろう。執事たちの顔が浮かんでは消えていく。彼らと同じように、シリウスだって私の大切な家族だ。私も彼らも、物なんかじゃない。この屋敷に暮らす、人間だっていうのに。
「お嬢様」
 いつの間にか瞳から零れていた涙を、シリウスの舌が拭い取った。ふふ、と微笑むその姿は月光に照らされて、狂おしいほどに、うつくしい。
「俺だけのご主人様になってくださいね? どんな貴女でも、俺は受け入れますから」
 執事の囁きが、私の心をゆっくり絡め取っていく。まるで、彼の背後に咲く薔薇の、蔓のように。
「……心から、お慕いしておりますよ。お嬢様」
 シリウスの薄い唇が、私の唇を食んだ。熱を孕んだ舌が口腔を蹂躙して、銀糸がベンチに落ちる。
「私は……誰か一人を選んだり、しないのよ。……ねえ、シリウス。解ってはくれないの……?」
「お戯れを」
 反論は反駁ではなく、キスで打ち消された。空気を失った脳みそに、シリウスの甘い声が染み渡っていく。
「貴女には、俺だけがいればいいのです。どうぞ、お忘れなきように……」
 窒息しそうなほどの愛に包まれて、私はまた目を閉じる。これはきっと、何かの夢に違いない。そう、思って……思えたら、幸せだったのかも、しれない。
「あははっ……ははっ、あははははっ……!」
 聞こえてくる高笑いが、現実だと教えてくれる。シリウスはギシリとベンチを揺らすと、馬乗りになって私の体を抱き締めた。ぎゅ、と回された腕はやっぱり優しくて、温かい。
「お嬢様……ははっ、俺の、俺だけの…………お嬢様……」
 耳元で囁かれる声に、憎悪はあっただろうか。彼は本当に、私を憎んでいるのだろうか。ぜんぶ、解らない。自嘲にも聞こえるシリウスの笑い声に、涙がつうと頬を零れる。どれだけそうしていたか解らないけれど、しばらくして、私の腕はようやく動くようになった。ベンチに縫い留められた状況じゃ何をすることもできやしないけれど、それでも私は、手を伸ばす。いつだって、私は誰かに手を取られて歩いてきた。お嬢様だから、主だから。お転婆な少女はいつ転ぶか解らない。転んでジェラートを落としてしまう子供と変わらない、そんな少女だった。大好きな赤いぴかぴかの靴を履いて、赤いリボンで髪を結って。そんな私と手を繋いでくれたのは、いつだって――……。
「お嬢様!」
 伸ばした手が、掴まれる。視界に現れたその人は、勢いよく私の腕を引っ張って、ベンチから私を引き剥がした。ぽすんと彼の腕に抱かれて、ようやく意識が薔薇の蔓から解放される。
「モリス、貴様……」
 青緑の瞳が、私を映す。
「遅くなってしまい、申し訳ございません。お嬢様、貴女のことは俺が必ずお守りする……そう、約束しましたよね?」
「ええ……ええ、そうね。モリス……」
「お嬢様。お屋敷で、待っていてください」
「……モリス。二人で、帰ってきてちょうだいね」
 ベンチからずるりと立ち上がったシリウスが、握った拳をモリス目がけて繰り出す。しかしモリスはそれを弾き、すぐに肘でシリウスの腹部を殴りつけた。



「よくも……ッ! 俺から、俺からお嬢様を奪おうなど! 許しはしないぞ、モリス!」
「お前の許しなど、俺は求めていない! 俺の全ては、お嬢様に捧げた。お嬢様が望むことをすると決めた。――彼女の笑顔が見られるなら、俺は何でもすると誓った!」
 シリウスの腕を掴み、モリスはその身体を投げ飛ばした。しかし、細身の執事のどこにそんな力があるのかというほどに彼は身を捩ると、すぐさまモリスの首に手刀を叩き込む。散った薔薇が革靴に踏まれ、ぐしゃりと泥に染まった。
「そんなもの偽善に過ぎない。所詮命令するだけの関係など、心がなくたって作れる。そんな偽物の関係に落ち着くくらいなら、俺は彼女を泣かせてでも、本心を知る! 俺がお嬢様を支配し、お嬢様が俺を支配する。この憎悪はやがて愛情に昇華する。俺のお嬢様に、俺以外の愛など要らない!」
「シリウス……っ!」
「お嬢様の執事は、俺だけでいい……!」
 シリウスは慟哭する。モリスの目を抉る勢いで突き出された指を、すんでのとこで彼は避けた。彼女はああ言ったけれど、憎悪に溢れるシリウスはモリスを殺す勢いで身体を動かしている。それに対抗するにはモリスとて殺す覚悟で向かい合わなければならないだろう。
……でも。
 モリスの主が望んだのは、誰も欠けないこと。彼女に忠誠を誓う七人の執事が一人でも欠けたら、きっともう彼女の笑顔を見ることは叶わないだろう。悲しむ顔なんて、モリスは見たくなかった。だから彼は、ぐ、と拳を握って薔薇垣の間を駆け抜ける。
「全ては、お嬢様のために……彼女の、笑顔のために!」



 裸足のまま庭園を走れば走るほど、砂利が足の裏に食い込んで痛い。私の足はいつだって、シリウスの選んだ靴に守られてきた。それがないだけで、こんなにも痛いなんて。
「っ……!」
 木の根っこに足を引っ掛けてしまい、私は勢いよくその場に転ぶ。白いドレスが土に汚れて、擦り切れた膝から出た血で裾が赤く染まった。よろよろと立ち上がっても、まだシリウスに飲まされた薬が残っているのか身体がふらつく。また地面にぶつかりそうになった私を、誰かの腕が支えてくれた。
「オリバー!」
「まったく……無茶をされる。お嬢様、ご無事でしたか」
「……ええ。来てくれてありがとう、オリバー。でも私……」
「どうやら、素直にベッドへ戻ってはくださらないようですね。ご安心を、お嬢様。私はあなたに仕える執事。あなたの願いが例えワガママであろうとも、それを叶えるのが私の仕事です」
「ありがとう……本当に、ありがとう」
 大きな腕が、私を抱き締める。優しい匂い、落ち着く匂い。私が幼い頃から彼はちっとも変わってなどいないんだろう。お嬢様を守ってくれる執事として。
「っぐ……!」
「えっ……オリバー!?」
 けれどその身体が、突然ぐらりと揺れた。何が起きたのか解らないまま目を見開く私の腕の中で、オリバーがずるり……と崩れ落ちていく。月明かりが彼の背中を照らしてようやく、そこにナイフが刺さっているのが見えた。銀色のそれは、月光を反射して煌めく。
「貴女は本当に、欲深い……罪深いお方だ」
「フィリップ……?」
 静かな声は、明確な殺意を孕んでいた。ゆらりと揺れるフィリップの手には磨かれた銀食器。それがオリバーの背を貫いたのだと、考えるまでもなく解った。青白い月の光を背に、彼は瞳孔の見開かれた双眸を私に向ける。そしてオリバーの身体を革靴で思い切り蹴り上げると、そのまま私の身体を地面に力一杯押し倒した。じゃり、と尖った土の欠片が皮膚に食い込む。彼は唇を歪めると、両手を私の首に添える。
「俺は忠告しましたよね? 貴女は誰をも魅了してしまうと。約束してくださったはずなのに。俺のところへ帰ってきてくれると。それなのに、貴女は……こんなに、ボロボロになって、」
 フィリップ、と呼ぶ声は口から出てくれない。彼は虚ろな瞳で私を見下ろし、両手でぎちぎちと首を絞め始める。洒落にならないくらいの強い力に、だんだんと意識が遠くなっていく。シリウスの薬は、あくまで一時的に私から自由を奪うものだった。けれど、彼のこれは……違う。本気の殺意だ。
「……ならば、よろしいでしょう。貴女がもう二度と、あの男を見ることがないように……俺だけを見つめたままで……貴女の時を止めてしまおう」
 耳元でそう囁くフィリップは、どこまでも歪んだ感情を私に向けていた。シリウスが他者を排除しようとするのに対して、フィリップは私個人を掌中に収めたがっている。時間は止まらず、流れ続ける。けれどそれを止める方法は――一つだけ、確かに存在する。誰もその選択肢を選ぶわけないだろうと思っていたのに、フィリップの殺意はあっさりとそれに触れてしまった。
「そうすれば、貴女は二度と罪を犯さない。この瞳に俺以外の男が映ることも、なくなるのだから」
 メガネを外した素顔のフィリップは目を細めてそう告げる。瞳に宿ったぎらつくような光に、今度こそ本当に意識を持っていかれそうになった。
 けれど、フィリップの身体が突然吹き飛ばされる。首からようやく彼の手が外れたことで一気に吸い込んだ酸素に、私はその場でうずくまるとげほげほと咳を繰り返した。背中を温かい手が撫でてくれる。頬に泥を付けたオリバーは、私とフィリップの間に壁のように立ちはだかった。
「オリバー、怪我は……」
「この程度、何てことはありません。お嬢様のためですから。それより、お嬢様。先を急ぐのでしょう?」
「……何でもお見通しね、あなたは」
「お嬢様の執事ですから」
 ふっと笑って、オリバーは私の頭を撫でてくれる。そんな彼を見て、フィリップは一層苛立ちを募らせたようだった。ぐらつく身体で起き上がったフィリップの殺意はオリバーを射抜こうとしている。
「オリバー、これ……」
「お嬢様……」
 ガウンのポケットに入っていたハンカチを取り出すと、私は彼の頬を拭く。……大丈夫。オリバーなら、私のところに戻ってきてくれる。
「私のワガママ、聞いてくれるかしら?」
「ええ。お嬢様のワガママなんて、私にとっては可愛いものです」
「もう。……そのハンカチ、私に返しに来て。フィリップと一緒に。私は……ブランコのところで、待っているから」
「本当に……お嬢様のワガママは、治りませんね」
「ええ。自分でも解ってるわ。これはきっと、不治の病なのだろうということくらい」
 戸惑った様子のオリバーにハンカチを押し付け、私は視線をフィリップの方に投げる。いつの間にか取り出した銀食器を手に構え、彼はぶつぶつと呪詛を吐き出していた。
「ごめんなさい、フィリップ。あなたの元に帰ることはできても、あなただけのために死ぬことはできないわ」
「お嬢様……」
「……オリバー、後はお願いね」
 フィリップの消えそうな声には応えない。あの日私は、家の中から再びオリバーのところへ戻りはしなかった。でも今は違う。また後で――そう告げて、私はヘンリーから逃げるように走り出した。
 足が痛くたって、走り続けなきゃ。立ち止まるわけには、いかないんだから。



「お嬢様……お嬢様、どうして、どうして貴女は、その男に……!」
「……フィリップ」
 見開かれた目は最早焦点など合っていなかった。オリバーが丹念に磨き上げたナイフを掴んだフィリップは、それを勢いよくオリバーに投げつける。彼が見ているのは、彼の仕える主の姿だけ。彼女を自分の中で完結することしか考えていない。殺意の籠った瞳がオリバーを睨み、彼の身体を薔薇垣へ追いやっていく。飛んできたナイフはすとんとオリバーの服を貫き、彼を壁に縫い留めた。動きを封じられたというのにオリバーは余裕綽々といった表情でフィリップを一瞥する。
「お前は……本当にお嬢様を殺したいと思っているのか?」
「殺す? 何を言っているんだ、オリバー。俺は彼女が二度と罪を犯さないよう、彼女の時間を止めるだけだ」
「……話は通じないか」
「お嬢様は俺のことだけを見ていればいい。彼女の瞳に映るのは俺だけでいい。俺だって、彼女だけを見ていられればいいんだから。他の執事のことなんて眼中にはないさ。俺は――お嬢様さえ、いればいい」
 ちゃき、と新たなナイフが構えられる。投げられたそれはオリバーの髪の毛を一房切り落としたが、その刹那。ずっと動かずにいたオリバーが腕を振り上げる。ナイフは地面へ転がり、それと同時にフィリップの持っていた残りの銀食器も土の上に散らばった。
「なっ……!」
「お嬢様はお優しい。人の心を誑かす天才だ。けれど――お嬢様に、罪など存在しない」
 ナイフを奪い、オリバーはその切っ先をフィリップの顔のすぐ傍に突き立てる。夏の夜風が一陣、二人の執事の間を吹き抜けていった。



「痛いよね、裸足って」
「っ……」
「ボクもずっとそうだったから、よーく解るよ。ね、お嬢様。今どんな気持ち? 泥だらけのドレスで、ボサボサの髪で、裸足で、走り回って逃げてるのって……辛いでしょう?」
「……そうね、とっても辛い。痛いわ。走るのもやめてしまいたいくらい」
「そっか。じゃあお嬢様、ボクのところにおいでよ。ボクならアンタを甘やかしてあげられる。アンタがボクに頭を垂れて、ボクのことを求めてくれるのなら」
 あの日と同じ侮蔑の笑みが私に向けられる。ここでヘンリーの手を取ったら、彼はきっと私を馬鹿にしながらも幸せな暮らしを提供してくれることだろう。ひどく、甘やかな選択肢。けれどここまで散々茨の道を選んできてしまった私は、彼の手を取ることを拒んだ。
 ワガママなお嬢様。結局私の根っこにあるのは、それなのだ。この屋敷を出ても変わらなかった。私は私にとって最高のハッピーエンドを求めるためなら、いくらでもワガママになってしまう。
「手癖が悪いな」
「スチュアート……」
 伸ばされたヘンリーの手を叩き落としたたのは、スチュアートだった。まるでナイトがポーンを蹴散らすかのように、彼はヘンリーを退ける。にやりと笑う彼は首で揺れる赤いペンダントを外すと、私の首にかけてくれる。
「お守り代わりだ。持ってろ」
 チッと小さな舌打ちを零したヘンリーを一瞥して、スチュアートは私を背に隠す。ヘンリーは、相変わらず侮蔑の潜んだ瞳で、狂気的なほどに私を見据えていた。
「お嬢様はボクのものだって、言わなかったっけ?」
「こいつは誰かのものになるような女じゃねえって知らねえのか?」
 なぁ、とスチュアートは私を振り返り、アメジストの瞳を優しくゆるませた。
「お前が選んだのが俺じゃねぇってことくらい、知ってたよ。でも……俺はお前の執事で、ダチだからな。お前を――守りたい。その気持ちに偽りはねぇ」
 それから彼は私の名前を呼んで、厩舎の方を指差す。
「リースが馬の準備をしてる。街まで行ったら、あいつと逃げろ」
「そんなこと……」
「できないなんて言わせねぇぞ? ……大丈夫だ。リースだけは、他の奴らと違う。あいつも絶対にお前を守る。ネーヴェと一緒に、逃げてくれ」
「っ……!」
 どん! と背中を押されて、私は裸足のまま駆け出した。ヘンリーが私を呼び続けるけれど、振り返ることはしない。薔薇に包まれた庭園が、どんどん遠くなっていく。屋敷の方へ逸れることはせず、私はスチュアートに言われた通りに厩舎へと向かった。
 逃げるためじゃ、ない。
 みんなを、守るために。
 ぎゅっと、スチュアートの貸してくれたペンダントを握り締める。足の裏は擦り切れ、ドレスは汚れ、髪はボサボサで。とてもじゃないけれど、今の私は「お嬢様」じゃなかった。



「ホンット……余計なことしてくれたよね」
「お互い様だろ?」
 ニヤリと笑い、スチュアートは拳を握った。あの夜は言われっ放しだったが、仕返しをせずにいられるほど彼は穏やかではない。すっと短く息を吸い込んで、一気に距離を詰めた彼はヘンリーの頬を殴り飛ばした。倒れた少年の口から血が吐き出される。最年少の執事は、今まで被っていた猫を完全に捨て去ったようだった。真っ白な手袋を泥の上に投げ捨てる。決闘の合図とされるそれにスチュアートが不信感を抱いたと同時に、ヘンリーは足元の泥を勢いよく蹴り上げた。
「くっ……!」
「ごめんね? ボク、礼儀正しい喧嘩なんてしたことないからさ」
 そう告げて、ヘンリーはスチュアートが怯んだ隙に拳を彼の腹部に打ち込んだ。これが本当にあのヘンリーかとスチュアートは我が目を疑う。鼻血を拭った少年の瞳は雄々しく光り、敵を――この場合はスチュアートを――確実に排除せんと睨んでいた。
「お嬢様にはボクがいなきゃいけない。ボクにはお嬢様がいなきゃいけない。あの女の情けない姿を見るのは、ボクだけでいい」
「それがテメェの本性か? 厨房でサマープディング作る気はもうねぇってことかよ」
「ははっ。お嬢様がボクに可愛くねだってくれたら、考えてあげないこともないよ。ま、どっちにしろ……ボクが欲しいのはお嬢様だけ。お前は要らないよ、スチュアート」
「奇遇だな。俺も、あいつには俺さえいればいいと思ってる。ヘンリー、お前は要らない。……けどな!」
 歯を食いしばり、スチュアートは革靴の先でヘンリーの足を払った。身長差がスチュアートの味方をする。倒れた少年に馬乗りになると、スチュアートはその胸倉を掴んで一発、頬を殴り抜いた。
「あいつには、全員が必要なんだよ! ……ムカつくことにな」



……大丈夫。オリバーはヘンリーを止めて、他のみんなを連れてきてくれる。向けられた恋情は、ずっと見ない振りをしてきた。でもそれも、もう終わり。フィリップ、リース、ヘンリー、スチュアート、シリウス、オリバー、モリス。私の大切な、七人の執事たち。
「っは、はぁっ……」
「お嬢様!? どうなさったのですか、その姿は……!」
「ごめんねリース、説明は後。それより、あれ、持ってる?」
「お嬢様に預けられた物ですね。はい、勿論。肌身離さず持ち歩いて欲しいと、他ならぬお嬢様のお願いでございますから」
 リースはポケットから、小さな箱を取り出す。いつだったかスチュアートに見せてもらった宝箱よりも小さいかもしれない。私はそれをリースから受け取って、ガウンのポケットに押し込んだ。
「スチュアートから、お嬢様を安全なところまで避難させるように命じられました。オリバーも、モリスも、屋敷にはいない。……お嬢様、どうなっているんですか?」
「……私が全部、悪いの」
 ごめんなさいと呟いたけれど、リースは状況を理解していないようで首を傾げていた。そんな彼の後ろで、鞍を付けられたネーヴェが大人しく主人の指示を待っている。
「ねえ、リース。あなたにとって、私や他の執事たちはどんな存在?」
「私にとって、ですか……そう、ですね。お嬢様は、誰よりも大切な存在です。私の仕えるべき主人であり、守るべきお方。そして、他の執事たちは……仲間、でしょうか。彼らも私と同じように、お嬢様のことを何より大切に思っているはずです。だから……ええと。お嬢様を大切に思う者同士、いがみ合う必要なんてない。だから、仲間かなって……思います」
「リースに聞いて良かった。私もね、そう思ってる。いがみ合う必要なんてない。みんな私の大切な執事で……家族だから」
――私はあなたや他の執事たちのことを、本当の家族のように想っている。
 あのとき告げた言葉に、嘘偽りはない。
「スチュアートとヘンリーを連れて、三人でブランコのところに来てくれる? 私も、そこにいるから」
 そんなお願いにリースは何かを尋ねることはせず、こくりと頷くと私をネーヴェの上に乗せた。差し出した手の甲に、彼はキスを一つ贈ってくれる。それを受け止めて、私はネーヴェにぴしゃんと手綱を叩き付けた。白馬は嘶き、夜の庭を走り始める。薔薇の匂いが夜風に乗って鼻先をくすぐり、揺れる馬上で私はぎゅっとペンダントと小箱とを握り締めた。
 ブランコは確か、お母様が用意してくれたものだったと思う。私が産まれたときに拵えたとかなんとか。ゆらゆらと揺れるそれは流石に傷んでしまってスチュアートが何度か直してはいるけれど、椅子の部分は昔のままだ。私はそこに腰かけて、みんなが来るのを待っていた。誰もいないガーデンはひどく静かで、ただ、薔薇だけが私を見ている。
 最初に来たのは、足を引き摺ったフィリップだった。ブランコの下まで来るとその身体はどさりと地面に横たわり、呆然と私を見つめていた。相変わらずヘーゼルに光はなく、私を見てはぱくぱくと口を動かしていた。見開かれた瞳に宿るのは、殺意。私を閉じ込めるために抱かれた、純粋なもの。その殺意が形を成していたら、きっと私の時間は彼の腕の中で止まっていたことだろう。
 次に、リースに連れられたヘンリーとスチュアートが現れた。二人は満身創痍で、ボロボロの服のまま地面に座り込む。ヘンリーの綺麗なシャツは泥にまみれ、かつて彼が告げたような、貧民街の孤児のような姿になってしまっていた。憎々しそうに私を見上げるその瞳に宿るのは、軽蔑。逆転してしまった主従関係は戻ることがないだろう。私は彼の主人であると同時に、彼に頭を下げる哀れなお嬢様に成り下がった。
 一方でアメジストの瞳は私を見て、バカ、と視線で訴えてきた。それからリースの方を一瞥したけれど、結局何も口に出すことはしない。そんな彼の瞳に宿るのは、友情。恋愛以上に、きっとその感情は大きい。だって彼は、ずっとずっと、私の友人だったのだから。
 そんな二人を連れてきたリース――弟のように優しい彼は、今この瞬間も私のことを気遣ってくれている。ネーヴェに私を乗せる前、走り続けたせいで血に染まった私の足を彼は自分のベストで拭いてくれた。優しい瞳に宿るのは、尊敬。私は彼に尊敬してもらえるような人間じゃない。だと言うのに、彼はこうして、私を敬い、尊んでくれる。
「……これで全員かな」
 最後にここへやって来て、そう告げたのはオリバーだった。右手にシリウスを、左手にモリスを引き摺っている。相変わらずこの人は、無茶をする。蜂蜜色の瞳に宿るのは、恋情。きっと彼は、ずっと昔から私に恋をしていた。恋が禁じられたこの館で、長い間私への想いを胸中に秘めていた。もしかしたら、墓まで持っていく気だったかもしれない。オリバーは淋しそうに笑うと、フィリップの横にシリウスとモリスを投げ出した。
 この二人は、どこか似ている。正反対なように見えて、たぶん、本質はかなり近いんじゃないだろうか。シリウスの瞳に宿るのは憎悪で、モリスの瞳に宿るのは慕情。……二人とも、私を誰よりも大切にしてくれた。大切だったからこそ憎んだシリウスと、大切だったからより一層守ろうとしてくれたモリス。彼らを私が咎めることは、できそうにない。だって二人が本当に私のことを大切にしてくれたって、知っているから。
 七人の執事たちは、それぞれの瞳で、私を見上げる。
 じゃあ――私の瞳には、何が宿っているんだろう。考えても……自分じゃ、解らない。
「私は、ワガママなお嬢様」
 ぎぃ、とブランコが揺れる。私の声とブランコが軋む音だけが、ガーデンに響いていた。
「だから、誰か一人を選ぶなんてできなかった。でも、ワガママだったから。誰も選ばずに、逃げるなんてこともしたくなかったの」
 次第に勢いの付き始めたブランコは空を切り、高いところまで私の身体を運ぶ。小さいときは体重が軽かったのもあって、こんなに早く上の方までいくことはなかったように思う。もちろん、飛び過ぎないようモリスや他の執事たちが手を加えていたのだとは思うが。
「私にとってみんなは家族なの。一緒に食卓を囲んで、ガーデンテラスでお喋りをして。たまにチェスをしたり、お散歩をしたりできる、そんな関係。……誰も欠けて欲しくない。私はこの円環を、保ち続けたいと思っているのよ」
……あ、流石にそろそろ怖くなってきた。
 でも私はブランコを漕ぐのをやめない。浴びる風がどんどん強くなって、泥だらけのワンピースを捲ろうとも。執事たちは何をするわけでもなく、宙に揺れる私を見ていた。
「それがこの先、保たれないというのなら。私が求める、家族と暮らす幸せハッピーエンドが、存在しないというのなら、」
 ぎぃ、ぎぃ。
 ブランコは揺れる。流石に縄を結んだ枝も軋み始めた。ちらりと下を見れば、モリスとスチュアートが縄や枝を見て、怪訝な表情を浮かべている。
 それを見越した上で、私は全員に聞こえるよう、言った。
「私はそんな人生、要らないわ」
 やっぱり、ちょっと怖い。
 でも、彼は言った。私のことを、絶対に守ってくれるって。だからその言葉を信じて、私は縄を掴んでいた手を離す。最高到達点まで浮いたブランコから、私の身体はいとも簡単に放り出された。ブランコ自体はさして大がかりな物ではない。子供が遊ぶための遊具だ。けれどそれだって、いちばん高いところまで漕げばそれなりの高さになる。加えてこのブランコが作られているのは、庭園の中でも丘のようになっているところ。それを加味すれば――打ち所が悪ければ、命を落とすくらいの高さは生み出せる。
「お嬢様!」
 それが誰の声だったかは解らない。一人の声じゃなかったかもしれない。飛び落ちる瞬間に目を閉じた私が次に瞳を開けたとき、眼前にあったのはモリスの焦った顔だった。
「おじょう、さま、」
「……信じてたわ、モリス」
――お嬢様、私は生涯貴女にお仕えすることを誓います。例え何があってもお守りしてみせます。
 今思えば、下手なプロポーズよりもそれっぽい気もする。モリスに無事にキャッチされた私は、その体勢のまま、ふてぶてしく言い放った。
「私の家族を壊すことを、私は許さない。私は、本気よ。誰か一人でも欠けるくらいなら、死んだ方がマシ」
「……」
「ワガママな御令嬢は、これくらいワガママでいた方が『らしい』でしょう?」
 誰かが、呆れたように笑った。
 狂ってしまった歯車は直らない。薔薇に包まれたこの屋敷で、私たちは一生狂い続けるのだろう。でも、それでも良かった。家族を失うくらいなら、その方がいい。狂ったままでも、家族として暮らせるのなら。
 不満を抱く執事は、いるだろう。けれどその執事とて、私を失うことは望んでいない。不要な家族を崩そうとしたら、最初に私が消える。私を殺そうとしたって、私はモリスや他の執事たちに守られ続ける。ウロボロスのような、永遠に続くせかい。逸れる線は存在しない。
――嗚呼、夜が明ける。
 いつの間にか隠れた月の代わりに、地平線からは太陽が顔を覗かせていた。柔らかな朝日が、ガーデンの薔薇を照らしていく。
 朝は必ずやってくる。明けない夜はなく、時間は進み続けるのだから。
 私はモリスの腕に抱かれたまま、ガウンのポケットに入れていた小箱を取り出した。ベルベットの蓋を撫でて、ぱかり、と開ける。瞬間、小さな音が零れてきた。
「……♪」
 穏やかな音楽は、メンテナンスを欠かさなかったから今日まで錆びることなく響いてくる。私の一番好きな曲。小さいとき、みんなでこの音楽に合わせて踊ったことがあった。あのときは、お父様たちもいて……本当に、楽しかったのを覚えている。
「お嬢様」
「……なぁに、モリス」
 気付けば両目に涙を浮かべた執事が、手にしたオルゴールのメロディに合わせて身体を揺らす私をじっと見ていた。ぎゅっと抱き締められ、耳元に唇が寄せられる。ぽたりと、私の頬に彼の涙が落ちてきた。私の大切な執事は、私を留めておくような勢いで私を抱き締める。膝の上にオルゴールを置いて、私も彼を抱き締めた。
 ありがとう。
 そう告げた私に、彼は囁く。
「貴女の笑顔はこれからも、この俺がお守りしましょう」


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