蒼穹に死す

01:日常の崩壊

 江戸は平和な町――だった、と母は言う。けれど私も、私の妹も、平和な江戸なんて知りやしない。
 空を覆うのは黒い影。その姿はどっからどう見ても異形そのもので、私たちはそんな影から隠れるように生きてきた。
 物心つくくらいに、江戸はとある存在によって侵略された。母はそれを妖怪の一種のように呼んだけれど、きっと違う。あれは妖怪なんて生易しいものじゃない。妖怪は、あんなむごたらしい殺し方をしないだろう。一度だけ見たことがある。あの化物が人間を襲って殺しているのを。驚きのあまり声も出なかった。めきょめきょと、おおよそ人工的すぎるその化物は人間をあっさり、何やら不思議な光でもって殺してしまったのだ。それだけなら、化物の一種で片付けてもいい。けれど異常だったのはその後のことで――化物は、殺した村人に成り代わったのだ。
 姿を映したとかそういうレベルじゃない。死体の口にめきょめきょと入りこむと、まるで皮でも被るかのようにその人を纏った。
 そのときの私はとにかく急いで村に戻って、母さんにそのことを伝えた。化物がそういう殺し方をすることは村の重役では周知の事実だったらしく、成り代わられた男はすぐに村人の手でもってバラバラに解体された。いくら化物でも、姿を表す前に壊されてしまったら手も足も出ないようであった。
――それが、妹が生まれる少し前のこと。
 そろそろ、少しだけ私の話をしようと思う。私の名前は。名前は、もう死んでしまった祖母がつけてくれたという。そして妹の名前はリースベト。こっちは、外国に行ってしまった私の義理の父さんがつけてくれた名前。……妹は混血児なのだ。日本人の母と、阿蘭陀人の父。私のお父さんは――私の目の前で、殺された。そう、化物に殺された村人が父さんだったのだ。成り代わられた父さんを殺してバラバラにした母さんの顔は今でも忘れない。母さんはいつだって悲しそうな顔をしていて、笑った顔の方が私の記憶の中には少ないと思う。
 リースベトを身籠ってすぐ、父さんは仕事のため出島から自分の国へと帰ってしまった。残された母さんは異国の血を引く妹を気味悪がる村人たちをなんとか説得して、女手一つで私たちを育ててくれた。とっても、感謝している。
 感謝しきれないほどに、感謝している。
 母さんが私たちを守ってくれなければ、私たちはこうして今走ることさえできなかっただろうと思うからだ。
 でこぼこの道をくたびれた草履で走る。手を繋いだリースベトはハァハァと荒い呼吸を零していたが、それに構ってやる暇はなかった。足を止めたら死ぬ。それはひどく解っていたし、もちろんリースベトも解っていたから走るのをやめなかった。私は同年代の子たちの中じゃかなり足が速い方で、故にこうして山道を抜けることさえ容易にできる。けれど外見を気にしてあまり外に出てこなかったリースベトにとって、この険しい山道を全力疾走するのはかなり大変なことだろう。
「おねえちゃ、ね、わたしのこと、置いていって……」
「馬鹿! そんなことできるわけないでしょっ!」
 嫌だ、絶対に嫌だ。
 私たちを守ってくれた母さんのためにも、ここでリースベトを見捨てるなんて私はできないし、したくない。
 けれど背後からあの化物が大軍で襲ってくるのは事実だ。いつの間にあんなに増えていたんだろう。それに、この村はひっそりと、絶対に目立たないように静かで寂れた自給自足の生活を送っていたのに。どうしてと考えていても思考はまとまらない。だって知らないことばっかりだ。私はあの化物がなんていう名前で、どうして人間を殺そうとしているのかさえ知らない。
 唯一知っていることは、足を止めたら死ぬということだけ。
 狩りや採取をするために山を歩いたことはあったけれど、こんな奥の方まで来たことはなかった。村人だって滅多に来ないだろう場所は、下草が生えまくっていて足を動かすのさえ困難だった。百足が足元をさかさか走っていく。あれくらい早く走れればいいのに。
「きゃっ!?」
「リース!?」
 考え事をしていたせいか反応が遅れた。繋いだ手が離れる。どうやら下草の間に盛り上がった根があったらしく、彼女はそこに足を引っかけてしまったようだった。急いで手を繋ぎ直そうとしたけれど時既に遅く、リースベトの身体がふわりと浮き上がる。歪な鞠のような形をしたねずみ色の化物の尾が、リースベトの身体を引き摺り上げているのだ。どうする、どうする、どうすればいい? なんで、リースが、どうして、と、ぐるぐる思考は堂々巡り。こんなところで死なせるために、母さんは私たちを庇ったわけじゃない――!
 けれど六歳になったばかりのリースベトが暴れたところで何の攻撃にもならないし、十歳の私にできることもない。力なくその場に崩れ落ちた私に向けられるのは、化物の身体から伸びた筒だ。ごめんなさい母さん、私、何もできなかった。
 懺悔をしようとした、そのときだった。
 爆音が辺りに響く。続くのは土煙の匂い。ゆっくりと目を開いたそこ、ねずみ色の化物の身体を見慣れない姿の男が踏み付けていた。



2016.07.02 柿村こけら

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